わたしたちのカノン 桜嵐に聴こえる不協和音~ジュ・トゥ・ヴー あなたが欲しい~

第二曲 歌わないピアノと胸のざわめき

 わけのわからないまま一年生にピアノ勝負を挑まれてしまい、気がついたら次の日になっていた。
 どうやって帰ったのかも、何を食べたのかもおぼえていない。
 ただ、あたしのカバンには一冊の譜面が入っていた。
 サティの『ジュ・トゥ・ヴー』。
 フランス語で『あなたが欲しい』を意味する楽曲。

 軽やかなワルツを刻む曲で、感傷的なメロディーを奏でるには豊かな表現力が求められる。

 この曲を水沢さんより上手に弾けなければ、ピアノ三重奏をとられてしまう。
 教室の自席で楽譜を開くけれど、何も頭に入ってこない。
 目で音符を追っても、音楽が流れない。
(どうしよう――)
 ぎゅっと譜面の端をつかむ手が震えていることに気づき、あたしの胸がカッと熱くなった。
 アンサンブルの編成を変えるのもおもしろそう――つい昨日までそんなことを言っていたのに、今のあたしはそれを完全否定していた。

 絶対にゆずりたくない。
 ピアノ三重奏をとられたくない。

 だから――すごく怖かった。
 今のあたしでは……失うかもしれない。

「結ちゃん」
 立ち上がると同時に奏に声をかけられ、あたしはとっさに笑顔をつくった。
「ごめんね、ちょっと時間なくて」
 そう告げて、楽譜を胸に抱いて教室を飛び出した。
 奏の眉が心配そうにひそめられていたことには気がついていたけれど。

   *

 休み時間はできるだけ音楽室に通って、ひたすら練習した。
 勝負の日まで、たった一週間しかない。
 ピアノ三重奏の練習も中止にして、ひたすら練習に没頭した。
 だから、九能くんと顔を合わせる機会もほとんどなかった。二年生に進級して奏とはまた同じクラスになったけれど、九能くんとは別のクラスになったから、よけいに。

 ピアノの前に座り、鍵盤に指をのせる。
 和音を鳴らして、あたしは息をのんだ。
 ――鍵盤が重い。
 指先が異常に冷たい。
(こわい――)
 そう思った瞬間、音楽室の扉が開いた。
「へへっ、追いかけてきちゃった。ごめんね」
 そう言って悲しげに笑ったのは、奏だった。
「ううん……。全然、ごめんねじゃないよ」
 あたしは鍵盤にふたをして、譜面をたたんだ。
「あのね、伝えておいたほうがいいかなって思って」
 奏はゆっくり歩み寄ると、あたしのとなりに座った。椅子をはんぶんこにする形になり、奏のぬくもりが伝わってくる。
「昨日の女の子……水沢さんだっけ? あの子、やっぱり九能くんにコクった子みたいだよ」
「あー……」
 なんとなく、そうだろうなとは思っていた。
「でも、フラれたらしい。ウワサによれば」
「……あー……」
 だからピアノ三重奏のピアニストの座を奪いにきたのか。九能くんと一緒にいたくて。
 ……強いなぁ。
「九能くんは、音楽に一途だもんねぇ」
「だねー。音楽バカってやつよ」
 水沢さんもそれがわかり、合奏部に入るしかないと思ったのだろう。
「そんな理由だからさ、勝負なんて受けなくていいと思うよ。無視したら?」
「うーん……」
 それで納得するような子には見えなかったんだよね……。
「そいじゃ、先に教室戻ってるね」
 奏はひらひらと手を振り、軽やかな足取りで音楽室を出て行った。

「無視する……か」
 でも、水沢さんが九能くんのことを好きで。
 それでピアノ三重奏に入りたいのなら。
 それなら、よけいに受けて立たないといけない気がする。
 どうしてだかそう思って、あたしは再び譜面を開いた。

  *

『ジュ・トゥ・ヴー』は、とても甘やかな旋律がつむがれた曲。
 あなたが欲しい、そばにいてほしい、愛してほしいと何度も何度もくりかえす愛の歌。
 テクニックだけでなく、表現力も求められる。
 
 九能くんに告白できる水沢さんのほうが、圧倒的に曲を表現できるだろう。

 あたしは、どうしたらいい?
 弾いても弾いても納得できず、あたしは簡単に行きづまってしまった。
 あせるばかりで余裕がない。
 なにひとつ表現できない……。

「おーい、もう鍵閉めるぞ」
 そう声をかけられ、あたしはハッと顔を上げた。
 いつの間にか、顧問の真田(さなだ)先生が扉に寄りかかるようにして立っていた。
 窓の外が暗い。
 あわてて音楽室の時計を見上げると、夜の7時になっていた。下校時間を過ぎているし、夕飯の時間だった。
「ぎゃーっ、やばいやばいやばい」
「親御さんに連絡しといてね」
「あ、はい」
 最近は家で仕事をしているお母さんにメッセージを送信して、急いで譜面を片づける。本当は校内でスマホ禁止だけど、こんなときはむしろ使わせてくれる。
「ずいぶん思いつめてるようだけど、大丈夫?」
 高級な猫を思わせる髪を揺らして、真田先生があたしの顔を覗き込んできた。
「すみません、いつものです。うまく弾けなくて」
「いつもより余裕なさそうに見えるけど」
「う……」
 ハイ、図星です。
「そうだ、たまにはアンリに連絡してやってよ」
「アンリ先輩に、ですか……?」
 アンリ先輩は、真田先生の甥っ子。
 あたしのお父さんとアンリ先輩のお父さんが友人関係で、あたしたちは子どもの頃に会ったことがある。昨年再会したけれど、アンリ先輩はパリに帰ってしまった。
 とても優雅で、愛のあるピアノを弾く人だ。
『愛』を表現させたら右に出る人はいないだろう。
「そっか……アンリ先輩に相談してみようかな」
「そうして? 『ユイはどうしてる』ってうるさいから」
 どうやら心配してくれているらしい。
 あたしはアンリ先輩の澄んだ優しい瞳を思い出して、頬をゆるめた。

   *

 真田先生に連絡先を教えてもらったものの、時差のあるパリに住むアンリ先輩とリアルタイムで会話をすることはむずかしく、結局はアプリを使ってメッセージのやりとりをすることになった。

――事の経緯をくわしく教えて。

『ジュ・トゥ・ヴー』の弾き方を相談しようと思っていたのに、アンリ先輩からはそんなメッセージが返ってきた。
 どこまで伝えようか悩んだものの、表現力では相手に分があることをわかってほしいからと、すべて伝えることにした。
 先輩はパリにいるから、九能くんとかかわることもないだろうし……。

――なるほど。だからユイはあせって余裕を失っているんだね。

 そうです、余裕ないです、自信もないんです。

 ――じゃあ、邪念を払ってみたら?

 じゃねん……?

 ――真っ暗ななかでピアノを弾いてみなよ。自分の音だけに集中できる。

 真っ暗にしたら鍵盤どころか譜面も見えません!

 ――暗譜したらいいんじゃない?

 ……というわけで、あたしは暗譜から始めることになった。
 ただでさえ時間がないのに。
「不安しかない……」