夜明けの空気は、妙に冷たかった。
嵐が去ったあとの村は、音を失ったように静まり返っている。
屋根から滴る雨水の音だけが、間延びした時を刻んでいた。
誰かが川の方を見た。
その視線につられるように、人が集まり始める。
――理由は誰も口にしない。
だが、胸の奥に引っかかる不安だけが、皆を同じ場所へ向かわせていた。
翌朝、雨は嘘のように上がっていた――
濡れた地面に集まった村人たちの視線が、一点に集まり、そこにあったのは、泥にまみれた赤子。
か細い泣き声が、途切れ途切れに空気を震わせ、胸元には、濁流に洗われてなお鮮やかな桜色の痣が浮かんでいた。
まるで血で描かれた花のように。
「……やはり、妖だ」
誰かが呟いた。
女たちは口元を押さえ、子を背に隠す。
男たちは腕を組み、一歩も近づかない。
泣き声は、確かに生きている証だった。
だが、それは同時に、面倒の始まりを告げる音でもあった。
拾えば、責任が生まれる。
抱けば、情が移る。
情が移れば、村に波風が立つ。
だから誰も動かなかった。
誰も抱き上げない。
誰も温めない。
誰も乳を含ませない。
――見殺しにする、という選択。
ただ一人、古老が低く言い放った。
「川に流せばよかったものを……」
その言葉に、誰も異を唱える者などいなかった。
赤子の泣き声は次第に弱まり、嗚咽のように変わっていく。
村人たちは、それを聞かぬふりをして背を向けた。
その夜、再び嵐が訪れた。
風雨の中、ひとつの影が川辺へと忍び寄る。
それは、春が生前わずかに心を許していた右治衛夫妻。
右治衛は、左治衛の兄。
同じ家に生まれ、同じ村で育ちながら、弟とは違う道を選んだ男。
弟の酒癖も、怒りも、弱さも、右治衛は誰よりも知っていた。
だからこそ、目を逸らさなかった。
春が嫁いできた頃、一度だけ、右治衛は弟の前に立ったことがある。
理由も、言い訳も求めず、ただ静かに言った。
――やめろ。
その一言が、春には忘れられなかった。
右治衛の妻もまた、何も尋ねなかった。
痣の理由も、村の噂も、赤子の行く末も。
問わず、決めつけず、ただ手だけを差し伸べた。
春が彼らの前でだけ、息ができたのは、「説明しなくていい」場所だったからだ。
――右治衛夫妻に抱かれ、熱を測られ、湯で体を拭われながら、桜は小さく身を震わせていた。
眠っているはずなのに、指先はきつく衣を掴んでいる。
離れようとすると、びくりと身を強張らせた。
しかし、春の温もりは、もうどこにもない。
だが、失われたことを理解するには、まだ幼すぎた。
夜半、妻はそっと囁いた。
「……春さんは、最後まで、この子を離さなかった」
右治衛は答えなかった。
ただ、闇の向こうで流れる川の音を、黙って聞いている。
村は、何も変わらなかった。
だからこそ、その不在だけが、異様に重かった。
それは呪いか。奇跡か。
誰にも答えはわからない。
ただ一つだけ確かなのは――
この夜、生き残ったこの命が、やがて多くの人間の運命を狂わせるということだった。
嵐が去ったあとの村は、音を失ったように静まり返っている。
屋根から滴る雨水の音だけが、間延びした時を刻んでいた。
誰かが川の方を見た。
その視線につられるように、人が集まり始める。
――理由は誰も口にしない。
だが、胸の奥に引っかかる不安だけが、皆を同じ場所へ向かわせていた。
翌朝、雨は嘘のように上がっていた――
濡れた地面に集まった村人たちの視線が、一点に集まり、そこにあったのは、泥にまみれた赤子。
か細い泣き声が、途切れ途切れに空気を震わせ、胸元には、濁流に洗われてなお鮮やかな桜色の痣が浮かんでいた。
まるで血で描かれた花のように。
「……やはり、妖だ」
誰かが呟いた。
女たちは口元を押さえ、子を背に隠す。
男たちは腕を組み、一歩も近づかない。
泣き声は、確かに生きている証だった。
だが、それは同時に、面倒の始まりを告げる音でもあった。
拾えば、責任が生まれる。
抱けば、情が移る。
情が移れば、村に波風が立つ。
だから誰も動かなかった。
誰も抱き上げない。
誰も温めない。
誰も乳を含ませない。
――見殺しにする、という選択。
ただ一人、古老が低く言い放った。
「川に流せばよかったものを……」
その言葉に、誰も異を唱える者などいなかった。
赤子の泣き声は次第に弱まり、嗚咽のように変わっていく。
村人たちは、それを聞かぬふりをして背を向けた。
その夜、再び嵐が訪れた。
風雨の中、ひとつの影が川辺へと忍び寄る。
それは、春が生前わずかに心を許していた右治衛夫妻。
右治衛は、左治衛の兄。
同じ家に生まれ、同じ村で育ちながら、弟とは違う道を選んだ男。
弟の酒癖も、怒りも、弱さも、右治衛は誰よりも知っていた。
だからこそ、目を逸らさなかった。
春が嫁いできた頃、一度だけ、右治衛は弟の前に立ったことがある。
理由も、言い訳も求めず、ただ静かに言った。
――やめろ。
その一言が、春には忘れられなかった。
右治衛の妻もまた、何も尋ねなかった。
痣の理由も、村の噂も、赤子の行く末も。
問わず、決めつけず、ただ手だけを差し伸べた。
春が彼らの前でだけ、息ができたのは、「説明しなくていい」場所だったからだ。
――右治衛夫妻に抱かれ、熱を測られ、湯で体を拭われながら、桜は小さく身を震わせていた。
眠っているはずなのに、指先はきつく衣を掴んでいる。
離れようとすると、びくりと身を強張らせた。
しかし、春の温もりは、もうどこにもない。
だが、失われたことを理解するには、まだ幼すぎた。
夜半、妻はそっと囁いた。
「……春さんは、最後まで、この子を離さなかった」
右治衛は答えなかった。
ただ、闇の向こうで流れる川の音を、黙って聞いている。
村は、何も変わらなかった。
だからこそ、その不在だけが、異様に重かった。
それは呪いか。奇跡か。
誰にも答えはわからない。
ただ一つだけ確かなのは――
この夜、生き残ったこの命が、やがて多くの人間の運命を狂わせるということだった。


