赤子が生まれて、まだひと月も経たぬ頃のことだった。
黒雲が月を呑み込み、稲妻が山の稜線を白く裂いた。
雷鳴が腹の底まで震わせ、叩きつける雨は大地を殴り、土を瞬く間に泥へと変えていく。
川は狂った獣のように唸りを上げ、濁流は牙を剥き、村を喰らおうとしていた。
その夜、左治衛はいつも以上に酒に酔っていた。
血走った眼が春を捉え、唇から吐き出される息は酒と怒りの臭いを帯びていた。
彼の手には、太い荒縄が握られていた。
「……もう限界だ」
低く、しかし確かな殺意を孕んだ声だった。
「村中が俺を笑っている。
そのガキの痣のせいでな……!」
春は反射的に赤子を抱き寄せた。
胸に押し当てると、桜の小さな体温が伝わってくる。
――大丈夫。
――母ちゃんがいる。
それだけを信じさせるように、春は背中をさすった。
「お願いです……」
声は震え、喉は乾ききっていた。
「この子だけは……桜だけは……」
次の瞬間、拳が飛んだ。
春の身体は土間に叩きつけられ、肺から空気が一気に吐き出された。
鈍い音が頭の奥で弾け、視界が白く滲む。
歯が折れ、口の中に血の味が広がった。
それでも、腕は緩まなかった。
荒縄が両腕に食い込み、骨が軋む。
引き剥がされそうになるたび、春は必死に赤子を抱き締めた。
爪が割れ、指先から血が滲んでも、離さなかった。
「……この子は……私の……」
言葉は最後まで形にならなかった。
髪を掴まれ、戸口へ引きずられる。
外は嵐だった。
雨が容赦なく叩きつけ、着物は瞬く間に泥と水を吸って重くなる。
裸足の足裏が石に裂かれ、枝に引き裂かれ、爪が剥がれる。
それでも春は歩いた。
歩くしかなかった。
赤子の温もりだけが、彼女を人間に繋ぎ止めていた。
「……怖くないよ、桜」
震える声で、必死に囁く。
「母ちゃんが……一緒だから……」
だが、その声は嵐に呑まれた。
川辺に辿り着いたとき、濁流はすぐそこまで迫っていた。
黒い水面が渦を巻き、闇の底から無数の手が伸びてくるように見えた。
「渡せ!」
怒号とともに、春の身体は再び地面に叩きつけられた。
背骨に衝撃が走り、息が詰まる。
それでも、赤子を抱く腕だけは最後まで離れなかった。
「……絶対に……渡さない……!」
春は夫の腕に噛みついた。
血の味が口いっぱいに広がる。
次の瞬間――
振り下ろされた農具の刃が、春の胸を深々と裂いた。
肉が裂ける音が、雷鳴と混じって響く。
熱い血が溢れ、泥を赤く染める。
春の身体は痙攣し、ゆっくりと崩れ落ちた。
それでも、腕の中の赤子だけは――
最後の最後まで、守り続けていた。
「……桜……生き……」
言葉は、そこで途切れた。
濁流が岸を削り、春の身体を呑み込む。
赤い花を纏ったかのように血に染まりながら、
母は闇の水底へと引きずり込まれていった。
ただ、赤子だけが岸に残された。
夜明けは、何事もなかったかのように訪れた。
激しかった雨は止み、川は昨夜の狂乱を忘れたふうに、ただ濁りを残して流れていた。雲の切れ間から淡い光が差し込み、山の端を白く染めていく。
春の家の土間には、もう血の匂いはなかった。
雨がすべてを洗い流し、踏み固められた泥だけが、重く乾き始めている。
囲炉裏は冷え切り、壊れた板戸は半ば開いたままだった。
だが、誰もそれを直そうとはしなかった。
村人たちは、いつも通り畑へ出た。
鍬を担ぎ、桶を持ち、昨日と同じ道を歩く。
「雨が多かったな」
「川が少し増水した」
そんな声が交わされる。
だが、春の名を口にする者はいなかった。
川辺では、倒れた草がまだ起き上がれずにいた。
流木が岸に引っかかり、濡れた衣の切れ端のようなものが、石の間に絡まっている。
それを見ても、誰も足を止めない。
「見なかったことにする」
それが、この村の選択だった。
昼になると、子どもたちは外へ出てきた。
だが、いつも桜が泣いていたあの家の前だけは、自然と避けて通る。
石も、罵声も、今日は投げられなかった。
それは優しさではない。
ただの、気まずさだった。
夕方、古老は家の前を通り過ぎるとき、わずかに目を伏せた。
それ以上のことはしない。
祈りも、悔恨も、なかった。
夜になると、村は静まり返った。
虫の声が戻り、風が木々を揺らす。
だが、あの夜に聞こえたはずの――
女の悲鳴も、赤子の泣き声も、
まるで最初から存在しなかったかのように、語られなかった。
桜だけが、この世に残された。
黒雲が月を呑み込み、稲妻が山の稜線を白く裂いた。
雷鳴が腹の底まで震わせ、叩きつける雨は大地を殴り、土を瞬く間に泥へと変えていく。
川は狂った獣のように唸りを上げ、濁流は牙を剥き、村を喰らおうとしていた。
その夜、左治衛はいつも以上に酒に酔っていた。
血走った眼が春を捉え、唇から吐き出される息は酒と怒りの臭いを帯びていた。
彼の手には、太い荒縄が握られていた。
「……もう限界だ」
低く、しかし確かな殺意を孕んだ声だった。
「村中が俺を笑っている。
そのガキの痣のせいでな……!」
春は反射的に赤子を抱き寄せた。
胸に押し当てると、桜の小さな体温が伝わってくる。
――大丈夫。
――母ちゃんがいる。
それだけを信じさせるように、春は背中をさすった。
「お願いです……」
声は震え、喉は乾ききっていた。
「この子だけは……桜だけは……」
次の瞬間、拳が飛んだ。
春の身体は土間に叩きつけられ、肺から空気が一気に吐き出された。
鈍い音が頭の奥で弾け、視界が白く滲む。
歯が折れ、口の中に血の味が広がった。
それでも、腕は緩まなかった。
荒縄が両腕に食い込み、骨が軋む。
引き剥がされそうになるたび、春は必死に赤子を抱き締めた。
爪が割れ、指先から血が滲んでも、離さなかった。
「……この子は……私の……」
言葉は最後まで形にならなかった。
髪を掴まれ、戸口へ引きずられる。
外は嵐だった。
雨が容赦なく叩きつけ、着物は瞬く間に泥と水を吸って重くなる。
裸足の足裏が石に裂かれ、枝に引き裂かれ、爪が剥がれる。
それでも春は歩いた。
歩くしかなかった。
赤子の温もりだけが、彼女を人間に繋ぎ止めていた。
「……怖くないよ、桜」
震える声で、必死に囁く。
「母ちゃんが……一緒だから……」
だが、その声は嵐に呑まれた。
川辺に辿り着いたとき、濁流はすぐそこまで迫っていた。
黒い水面が渦を巻き、闇の底から無数の手が伸びてくるように見えた。
「渡せ!」
怒号とともに、春の身体は再び地面に叩きつけられた。
背骨に衝撃が走り、息が詰まる。
それでも、赤子を抱く腕だけは最後まで離れなかった。
「……絶対に……渡さない……!」
春は夫の腕に噛みついた。
血の味が口いっぱいに広がる。
次の瞬間――
振り下ろされた農具の刃が、春の胸を深々と裂いた。
肉が裂ける音が、雷鳴と混じって響く。
熱い血が溢れ、泥を赤く染める。
春の身体は痙攣し、ゆっくりと崩れ落ちた。
それでも、腕の中の赤子だけは――
最後の最後まで、守り続けていた。
「……桜……生き……」
言葉は、そこで途切れた。
濁流が岸を削り、春の身体を呑み込む。
赤い花を纏ったかのように血に染まりながら、
母は闇の水底へと引きずり込まれていった。
ただ、赤子だけが岸に残された。
夜明けは、何事もなかったかのように訪れた。
激しかった雨は止み、川は昨夜の狂乱を忘れたふうに、ただ濁りを残して流れていた。雲の切れ間から淡い光が差し込み、山の端を白く染めていく。
春の家の土間には、もう血の匂いはなかった。
雨がすべてを洗い流し、踏み固められた泥だけが、重く乾き始めている。
囲炉裏は冷え切り、壊れた板戸は半ば開いたままだった。
だが、誰もそれを直そうとはしなかった。
村人たちは、いつも通り畑へ出た。
鍬を担ぎ、桶を持ち、昨日と同じ道を歩く。
「雨が多かったな」
「川が少し増水した」
そんな声が交わされる。
だが、春の名を口にする者はいなかった。
川辺では、倒れた草がまだ起き上がれずにいた。
流木が岸に引っかかり、濡れた衣の切れ端のようなものが、石の間に絡まっている。
それを見ても、誰も足を止めない。
「見なかったことにする」
それが、この村の選択だった。
昼になると、子どもたちは外へ出てきた。
だが、いつも桜が泣いていたあの家の前だけは、自然と避けて通る。
石も、罵声も、今日は投げられなかった。
それは優しさではない。
ただの、気まずさだった。
夕方、古老は家の前を通り過ぎるとき、わずかに目を伏せた。
それ以上のことはしない。
祈りも、悔恨も、なかった。
夜になると、村は静まり返った。
虫の声が戻り、風が木々を揺らす。
だが、あの夜に聞こえたはずの――
女の悲鳴も、赤子の泣き声も、
まるで最初から存在しなかったかのように、語られなかった。
桜だけが、この世に残された。


