月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

村から背を向けられ、家に戻る夜が増えていった。

戸を閉めても、外の視線は消えない。

闇の向こうで、誰かが見ている気配だけが残る。

左治衛は、ますます酒に溺れた。
言葉は荒れ、沈黙は重く、囲炉裏の火だけが、毎夜虚しく揺れていた。

春は悟っていた。
この家は、もう「戻れる場所」ではない。

それでも、逃げ場はなかった。
守ると決めた以上、ここに立ち続けるしかなかった。

そして――
その夜は、嵐とともにやって来た。

雨が戸板を叩き、風が家を揺らす。
屋根を打つ音は次第に荒さを増し、まるでこの家そのものを壊そうとしているかのようだった。

土間では、左治衛が酒に溺れ、無様に転がっていた。
空になった徳利が倒れ、酒の匂いが湿った空気に混じる。

「……普通の子だったら……」

誰に向けるでもなく、独り言のように呟く。

「こんなことには、ならなかった」

その言葉が、春の胸を深くえぐった。
反論の言葉は喉までせり上がるが、声にはならない。

雨音の向こうで、桜が小さく身じろぎした。

「今すぐ……川に棄てて来い!」

左治衛が、ふらりと身を起こし、短刀を抜いた。

刃が囲炉裏の灯を受け、濡れたように冷たく光る。

春は一歩も退かなかった。

「嫌です!」

叫ぶように言い、桜を庇って刃を押し返す。

次の瞬間、拳が飛んだ。
視界が白く弾け、体が土間に叩きつけられる。

息が詰まり、音が遠のく。
それでも、腕だけは離れなかった。

春は歯を食いしばり、身を丸める。
腕の中の温もりだけを、必死に守る。

血に濡れた唇が、微かに動いた。

「桜……」

嵐の音に消えそうな、か細い声で囁く。

「お前は……生きるのよ」

それは祈りでも、願いでもなかった。
母が、母として選んだ、ただひとつの決意だった。

その誓いは、誰にも聞かれなかった。
だが確かに――
この世で最も弱い命の耳に、届いていた。

その日から、いくつかの夜が、何事もないふうに過ぎていった。