月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

だが、その静かな芽吹きが、まだ言葉にもならぬうちに――
時は、待つことなく流れていった。

綱吉の胸に宿り始めた思いが、「志」と呼べる形を持つ前に、彼はすでに、避けがたい役目の只中へと押し出されていく。

個人としての逡巡も、迷いも、徳川の血を引く者には、許される時間ではなかった。

そして――

天下に名を告げる朝が、訪れる。



延宝八年八月二十三日。

空は高く澄み、夏の名残を残しながらも、どこか季節の節目を思わせる朝であった。
江戸城本丸では、朝廷よりの勅使を迎えるため、早くから儀式の支度が整えられていた。

白砂が敷き詰められた庭には、寸分の乱れもない。
並ぶ旗、正装した重臣たち、張り詰めた沈黙――
すべてが「徳川の威」を形にしていた。

その中央に、徳川綱吉は座していた。

五代将軍となる男の背筋は、驚くほど真っ直ぐだった。
だがその内側では、静かな緊張が脈打っている。

やがて勅使が進み出、宣下の文言が厳かに読み上げられた。

「――徳川綱吉、征夷大将軍に任ず」

その瞬間、居並ぶ者たちは一斉に額を畳に打ちつけた。
低く、重く、揃った音が、江戸城の奥深くに響き渡る。

綱吉は、深く一礼した。

将軍となった――
だが、それは終わりではない。
むしろ、ここからすべてが始まるのだと、彼は理解していた。



同じ刻。

江戸の町では、すでに噂が走り始めていた。

「将軍様が代わったらしいぞ」
「今度は館林様だとよ」
「学問好きのお方だって?」

日本橋の魚河岸では、桶を洗う手を止めて話し込む者がいる。

長屋の井戸端では、女たちが顔を寄せ合い、小声で囁く。

「厳しくなるのかねぇ」
「さあねぇ。でも、戦はもうこりごりだよ」

誰もが、新しい将軍に期待と不安を同時に抱いていた。

だが、日々の暮らしは変わらない。

魚は売られ、米は炊かれ、子どもは笑う。

天下の主が替わっても、庶民の一日は続いていく。

――それこそが、泰平の証でもあった。



夕刻。

儀式を終えた綱吉は、城内の回廊を一人で歩いていた。

長く伸びる廊下。

柱に映る夕陽の影が、ゆっくりと形を変えていく。

ふと足を止め、庭を見下ろす。

風に揺れる草木。

池の縁に集まる鯉。

その傍らで、城内で飼われる犬が静かに尾を振っていた。

「……小さき命も、大きき命も」

綱吉は、誰にともなく呟く。

学びの中で繰り返し出会ってきた言葉が、胸に蘇る。

仁義。慈悲。天命。

――もし、命を粗末にする世が、乱れを生むのだとしたら。
――もし、慈しみが秩序を生むのだとしたら。

その考えは、まだ誰にも語られていない。

語られることもなく、ただ、綱吉自身の内に沈んでいる。

だがそれは、確かに「芯」となって、心の奥に根を張り始めていた。



夜。

江戸の町に灯が入り、無数の明かりが川面に揺れる。

酒を酌み交わす声、三味線の音、笑い声。

そのすべてを、城の高みから見下ろしながら、新たな将軍は、静かに目を閉じた。

――この光を、守りたい。
――この命を、失わせたくない。

それが、祈りであったのか、誓いであったのか。

その境は、まだ曖昧だった。

しかしその想いは、やがて法となり、命令となり、天下を縛る鎖となって、善意と混乱を同時にもたらすことになる。

延宝八年、夏。

戦なき世の只中で、一人の将軍が、静かに「慈悲」を握りしめた。

それが、後に「異端」と呼ばれる時代の、確かな始まりであった。


――それは、後に「理」と呼ばれることになる決断だった。

だがその理が、名もなき命にどんな影を落とすのかを、この時、知る者はまだいなかった。