その夜、江戸の空は、どこまでも澄んでいた。
雲はなく、星は淡く瞬いている。
夏の名残を含んだ風が川面を撫で、遠くで櫓の軋む音がかすかに響いた。
川辺では人々が笑い、酒を酌み交わし、
仮設の舞台で舞われた芸の余韻が、まだ夜気の中に漂っていた。
拍子木の乾いた音はすでに止み、
それでも人の声だけが、名残惜しむように川沿いを満たしている。
誰もが、自分の暮らしの延長に、
明日もまた同じ朝が来ると疑わなかった。
米を量り、鍋を振り、銭を数え、
昨日と同じように目を覚まし、
昨日と同じように夜を迎える。
その繰り返しが、永遠に続くと信じていた。
だが――
同じ空の下、
川音も、人の気配も、笑い声も届かぬ場所で、
ひとり、眠れぬ男がいた。
江戸の外れでもなく、町の外でもない。
この国の、まさに中心である。
静まり返った城の奥で、
夜は、町とは異なる重さを帯びていた。
城は、深い闇に沈んでいた。
昼間の喧騒も、政の声も、すでに遠い。
広い廊下は息を潜め、
襖の向こうには、誰の気配もない。
障子越しに差し込む月の光が、
畳の縁を淡く照らしている。
白とも銀ともつかぬその光は、動かず、揺らがず、
まるで時そのものが立ち止まっているかのようだった。
風はなく、
虫の声さえ遠い。
眠りを妨げる音は、何ひとつないはずだった。
それでも、綱吉は目を閉じることができなかった。
横たわっても、身体は休まらない。
瞼を閉じれば、闇の奥から、
必ず同じ光景が浮かび上がってくる。
枕元には、開かれたままの経典が置かれている。
墨の文字は整い、筆致は静かで、
そこに記された言葉は、これまで幾度となく読み返してきたものだった。
だが今夜は、
どの一句も胸に沈まず、
ただ、紙の上に在るだけだった。
綱吉は、そっと息を吐いた。
――また、同じ夢を見る。
生まれて間もなく、
わが子として抱いた腕の中で、冷えていった幼い命。
小さな指。
握り返す力もない、かすかな温もり。
弱々しい呼吸が、やがて、音もなく消えていった瞬間。
そして、
それを止めることも、
救うこともできなかった自分。
あれは、罰だったのか。
それとも、戒めだったのか。
答えは、今も得られていない。
ふと、僧の言葉が脳裏をよぎる。
「殺生は、巡り巡って、必ずこの世を濁します」
人であれ、獣であれ、命に違いはない。
弱きものから奪われた血は、
やがて、より大きな不幸となって戻ってくる。
その言葉は、
綱吉の胸に、長く澱のように溜まり続けていた。
綱吉は、ゆっくりと身を起こした。
夜の闇は、あまりにも静かだった。
まるで、何事も起きていないように見える。
だが――
この静けさの下に、
どれほどの無自覚な殺生が積もっているのか。
誰にも数えられぬ命が、
どれほど踏みにじられ、
どれほど忘れ去られてきたのか。
「……このままでは、いけない」
声は、ほとんど囁きだった。
だが、その言葉は、確かに自分自身へ向けられていた。
胸の奥には、
揺るぎのない確信があった。
弱き命を守ることは、
この国を守ることに等しい。
それは、綱吉にとって慈悲であり、
同時に、秩序でもあった。
乱れた世を正すための、
静かな決断だった。
綱吉は、経典を静かに閉じる。
紙が重なり合う、かすかな音が、
広い夜の中に吸い込まれていく。
明日、法は言葉となり、
言葉は、世を縛る。
その先に待つものを、
この夜の綱吉は、まだ知らなかった。
雲はなく、星は淡く瞬いている。
夏の名残を含んだ風が川面を撫で、遠くで櫓の軋む音がかすかに響いた。
川辺では人々が笑い、酒を酌み交わし、
仮設の舞台で舞われた芸の余韻が、まだ夜気の中に漂っていた。
拍子木の乾いた音はすでに止み、
それでも人の声だけが、名残惜しむように川沿いを満たしている。
誰もが、自分の暮らしの延長に、
明日もまた同じ朝が来ると疑わなかった。
米を量り、鍋を振り、銭を数え、
昨日と同じように目を覚まし、
昨日と同じように夜を迎える。
その繰り返しが、永遠に続くと信じていた。
だが――
同じ空の下、
川音も、人の気配も、笑い声も届かぬ場所で、
ひとり、眠れぬ男がいた。
江戸の外れでもなく、町の外でもない。
この国の、まさに中心である。
静まり返った城の奥で、
夜は、町とは異なる重さを帯びていた。
城は、深い闇に沈んでいた。
昼間の喧騒も、政の声も、すでに遠い。
広い廊下は息を潜め、
襖の向こうには、誰の気配もない。
障子越しに差し込む月の光が、
畳の縁を淡く照らしている。
白とも銀ともつかぬその光は、動かず、揺らがず、
まるで時そのものが立ち止まっているかのようだった。
風はなく、
虫の声さえ遠い。
眠りを妨げる音は、何ひとつないはずだった。
それでも、綱吉は目を閉じることができなかった。
横たわっても、身体は休まらない。
瞼を閉じれば、闇の奥から、
必ず同じ光景が浮かび上がってくる。
枕元には、開かれたままの経典が置かれている。
墨の文字は整い、筆致は静かで、
そこに記された言葉は、これまで幾度となく読み返してきたものだった。
だが今夜は、
どの一句も胸に沈まず、
ただ、紙の上に在るだけだった。
綱吉は、そっと息を吐いた。
――また、同じ夢を見る。
生まれて間もなく、
わが子として抱いた腕の中で、冷えていった幼い命。
小さな指。
握り返す力もない、かすかな温もり。
弱々しい呼吸が、やがて、音もなく消えていった瞬間。
そして、
それを止めることも、
救うこともできなかった自分。
あれは、罰だったのか。
それとも、戒めだったのか。
答えは、今も得られていない。
ふと、僧の言葉が脳裏をよぎる。
「殺生は、巡り巡って、必ずこの世を濁します」
人であれ、獣であれ、命に違いはない。
弱きものから奪われた血は、
やがて、より大きな不幸となって戻ってくる。
その言葉は、
綱吉の胸に、長く澱のように溜まり続けていた。
綱吉は、ゆっくりと身を起こした。
夜の闇は、あまりにも静かだった。
まるで、何事も起きていないように見える。
だが――
この静けさの下に、
どれほどの無自覚な殺生が積もっているのか。
誰にも数えられぬ命が、
どれほど踏みにじられ、
どれほど忘れ去られてきたのか。
「……このままでは、いけない」
声は、ほとんど囁きだった。
だが、その言葉は、確かに自分自身へ向けられていた。
胸の奥には、
揺るぎのない確信があった。
弱き命を守ることは、
この国を守ることに等しい。
それは、綱吉にとって慈悲であり、
同時に、秩序でもあった。
乱れた世を正すための、
静かな決断だった。
綱吉は、経典を静かに閉じる。
紙が重なり合う、かすかな音が、
広い夜の中に吸い込まれていく。
明日、法は言葉となり、
言葉は、世を縛る。
その先に待つものを、
この夜の綱吉は、まだ知らなかった。



