月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

江戸、隅田川の川辺。

夕刻、川面は茜を溶かしたように揺れ、行き交う舟の影が長く伸びていた。
魚を焼く匂い、湿った土の匂い、人いきれと汗――それらが入り混じり、江戸の夜がゆっくりと息を吹き返していく。

川沿いの一角に、仮設の舞台が組まれていた。
粗末な板を組み合わせただけのものだが、周囲には灯明が並べられ、布が張られ、ささやかな“非日常”が作られている。

――江戸一座・今宵限りの舞。

書き付けられた札に、人々は足を止めた。
商人、町人、職人、奉公帰りの女たち。
誰もが日々の重さを一時忘れたくて、川辺に集まっていた。

太鼓が、低く鳴った。
笛が、夜気を裂くように響く。

やがて、舞台袖から一人の娘が歩み出る。

桜だった。

薄紅の衣は、灯明の光を受けてほのかに輝き、胸元から首筋にかけて刻まれた桜模様が、息づくように浮かび上がる。
それは隠しきれぬ印であり、彼女が生きてきた証そのものだった。

桜は、舞台中央で静かに立ち止まる。
目を伏せ、深く息を吸う。

――大丈夫。
――ここは、私の居場所。

幼い頃から、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。

太鼓が打たれ、舞が始まる。

足を踏み出す。
扇を開く。
身体が、音と一つになる。

一挙手一投足に、幼い頃から積み重ねてきた時間が滲み出る。
転んだ日、叱られた日、泣きながら眠った夜。
それでも舞をやめなかった理由が、すべてそこにあった。

観客のざわめきが、次第に消えていく。

人々は息を呑み、ただ見つめていた。
妖の子と囁かれた痣も、奇異の目も、この瞬間だけは、誰の口にも上らなかった。

――ただ、美しい。

そんな無言の思いが、川辺に満ちていく。

そのときだった。

桜は、視線を感じた。

数多の目の中で、ひときわ静かで、澄んだ気配を持つ視線。

人垣の向こうに、ひとりの男が立っていた。

紺の羽織。
無駄のない所作。
背筋を伸ばし、微動だにせず舞を見つめている。

町人ではない。
桜は、瞬時にそう悟った。

武家の者だ。
しかも――ただの下級ではない。

舞を続けながらも、心臓が早鐘を打つ。
視線が、吸い寄せられるように絡む。

ほんの一瞬、目が合った。

その瞬間、世界の音が遠のいた。

(……この人……)

理由はわからない。
だが、胸の奥で何かが確かに揺れた。

舞が終わると、静寂が一拍置かれ、やがて大きな拍手が沸き起こった。

桜は深く一礼し、舞台袖へ下がる。
胸の鼓動が、なかなか収まらなかった。

夜も更け、観客が散り始めた頃。
桜が衣を整えていると、声をかけられた。

「……今宵の舞、見事でした」

振り向くと、あの男が、少し距離を保って立っていた。

「ありがとうございます」

自然と、丁寧な口調になった。
相手の纏う空気が、それを求めていた。

「差し支えなければ、名を伺っても?」

「……桜と申します」

男は、わずかに目を細めた。

「よい名だ。花の盛りも、散り際も知っている名だ」

胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

「……家宣《いえよし》と申します。
商いで江戸に滞在している者です」

一瞬の間があった。
ほんの刹那、言葉を選ぶような沈黙。
それは名ではなく、立場を隠すための間だった。

――名を変えたところで、俺が俺であることは、何ひとつ変わらぬというのに。

だが桜は、それを気にも留めなかった。

商人――。
そう名乗りながらも、言葉の選び方、声の低さ、間の取り方。
どれもが、武家のそれだった。

桜は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、壊れてしまう気がしたからだ。

それでも――
その夜を境に、二人は再び会うようになる。

川辺で。
橋の下で。
花火の音が夜空を裂く下で。

名も約束も持たぬまま、ただ時だけを重ねていった。

家宣は多くを語らなかった。
身分も、素性も、過去も。

だが、桜は不思議と不安を感じなかった。

「桜」

名を呼ばれるたび、胸の奥に温かな灯がともる。

「お前を前にすると、俺は――」

その言葉を、桜は、疑わなかった。

自分が何者であるか。
痣を持つ身であること。
一座の娘であること。

すべてを超えて、この人の前では、ただの「桜」でいられる。

それが、何よりも甘く、恐ろしかった。

――その頃、江戸の町では。
慈悲という名の歪みが、静かに、確実に、人の心を蝕み始めていたことを。

桜は、まだ知らなかった。

出会いの翌日も、その翌日も、江戸は何事もなかったかのように朝を迎えた。

桜は、いつも通りに白粉を引き、いつも通りに髪を結い、いつも通りに舞台へ上がった。

客の笑い声。
銭の音。
拍子木の乾いた響き。

すべてが、昨日までと同じだった。

ただ――
ひとつだけ、違っていた。

舞っている最中、桜はふと、視線を感じる。

客席の奥。
人波の向こう。

そこに、あの男はいない。

いないとわかっているのに、探してしまう。

己の愚かさに、桜は苦く微笑んだ。



夜。

川辺を歩いても、人の気配は多く、月は雲に隠れていた。

逢う理由も、名乗る資格も、まだ何ひとつ、持たない。

だから、声をかけることもなく、待つこともしない。

それが正しいと、桜は思っていた。



男の方も同じだった。

市井を歩き、人の声を聞き、舞台の噂を耳にしても――
桜の名だけは、心の奥で、触れてはならぬもののように避けていた。

武家であること。
役目を帯びていること。
この江戸が、今、どれほど危うい場所か。

それらすべてが、あの女から距離を取れと告げていた。

それでも。

夕暮れの橋の上で、ふと足を止める。

薄紅の布が、風に揺れる幻を見る。

――あれは、夢だ。

そう言い聞かせて、男は歩き出した。



三日。
四日。
五日。

何も起きない。

誰も倒れず、誰も死なず、誰も、それを恋とは呼ばなかった。

その静けさが、かえって不気味だった。

まるで、まだ名もつかぬ嵐が、息を潜めている水面のように。



そして、六日目の夜。

桜は、舞台を降りたあと、なぜか一人で川辺へ向かった。

理由はない。

ただ、行かねばならぬ気がした。

その背に、月が昇り始めていた。