月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

夜風が吹き、焚き火の火の粉が舞い上がった。

桜は唇を噛み、しばらく何も言わなかった。

泣かなかった。
叫びもしなかった。

ただ、胸の奥に、今まで知らなかった重さが落ちてくるのを、じっと受け止めていた。

それは、悲しみとも恐れとも違っていた。
泣けば流れてしまいそうで、叫べば誰かに委ねてしまいそうで、桜はそれを、胸の奥で抱えたまま、動かなかった。

母の声が、遠くで響いた気がした。
もう会えないはずの声。
優しくて、あたたかくて、それでも自分を置いていった声。

逃げたいと思えば、逃げられたかもしれない。
子どものままでいれば、誰かが代わりに選んでくれただろう。

けれど、それを選ばないことを、桜は、選んだ。

やがて、小さな声で、しかし確かに言った。

「……私は」

桜は顔を上げる。

「母上のためにも……
 強く、生きます」

右治衛夫妻は、言葉を返さなかった。

ただ、そっと桜を抱きしめた。

細い肩。
小さな背中。
それでも、確かに宿る命の重さ。

その夜、桜は初めて知った。

守られることと、生きることは、同じではないということを。

そして――
自分は、もう「守られるだけの子」ではないのだと。

焚き火の炎が、静かに、その決意を照らしていた。

夜は、静かだった。

虫の声が、いつも通りに鳴いている。
遠くで、誰かが戸を閉める音がした。
水を汲む桶の音、犬の足音、それらはすべて――昨日までと、何一つ変わらなかった。

男は、座っていた。

灯りも点けず、ただ、畳の上に胡坐をかいたまま。

昼に聞かされた言葉が、頭の中で反芻されることもなかった。

あまりに現実離れしていて、考える前に、思考そのものが止まっていた。

――そうか。
――そういうことだったのか。

納得でも、否定でもない。
ただ、音のない理解だけが、胸の奥に沈んでいる。

外では、風が吹いた。

障子が、かすかに鳴る。
それだけのことが、ひどく遠い出来事のように思えた。

男は、自分の手を見る。

血は、ついていない。
震えてもいない。
昼間と、まったく同じだ。

(……何も、変わっていない)

それが、何よりも異常だった。

世界の裏側を覗いてしまったというのに、江戸は、人を喰らう病の影を孕んでいるというのに、将軍の名が、人ならざるものへと変わったというのに――

夜は、何事もなかったように、人々の上に降りていた。

ふと、思う。

桜は、今、眠っているだろうか。

あの女は、何も知らずに、明日の舞の段取りを考えているかもしれない。

その想像が、胸を締めつけた。

(――言うべきなのか)

そう思った瞬間、男は、それ以上考えるのをやめた。

言葉にすれば、すべてが現実になってしまう。

現実になれば、もう、戻れない。

だから今夜だけは、何も起きなかったことにした。

知らなかった夜。
聞かなかった言葉。
見なかった真実。

それらを、この暗がりの中に、そっと伏せる。

夜が、深まる。

虫の声は、まだ、鳴いている。

長屋の向こうでは、誰かが笑っていた。
酒に酔った声が、風に乗って流れてくる。
明日の天気を気にする声、米の値を嘆く声、どれも、昨日と変わらない。

火事も起きず、喧嘩も起きず、夜は、あまりにも穏やかだった。

だからこそ、この静けさが、男には耐えがたかった。

江戸は眠り、誰も、悲鳴を上げない。

――それが、最も残酷な夜だった。