月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

右治衛の妻は、何か言いたげに唇を引き結んだまま、しばらく沈黙を守っていた。

焚き火のはぜる音が、夜の静けさの中でひときわ大きく響く。
赤く揺れる炎が、妻の横顔を照らしては影に沈め、そのたびに彼女の表情を読み取ることが難しくなった。

言葉にすれば、戻れなくなる。
そう分かっているかのように、妻は一度、ゆっくりと息を整える。

そして――
右治衛の妻が、静かに言葉を引き取った。

「春さんはね……」

その声は低く、夜気に溶けるように穏やかだった。

「お前を、この腕に託して逝ったのよ」

焚き火の赤が、妻の瞳に揺れている。
炎の奥に映るその目は、過去を見つめているようでもあり、同時に今この瞬間の桜を確かに捉えてもいた。

「雨の夜だったわ」

ぽつり、と語る。

「川が荒れて、風が吠えて……」

その情景を思い出すように、妻の視線が一瞬だけ焚き火から外れ、闇の奥へと向かう。

「それでも、春さんは最後まで離さなかった」

その言葉には、悲しみよりも、確かな強さが宿っていた。

桜は、自分でも気づかぬうちに、胸元の衣を強く握っていた。
指先に力がこもり、布が皺になる。それでも、ほどくことができなかった。

「……母上は」

声が震えた。
喉の奥で何かが詰まり、言葉がうまく形にならない。

「……私は、捨てられたわけじゃ……ないの?」

問いかけは、祈りに近かった。

右治衛は、その言葉を受け止めると、迷いなく、はっきりと頷いた。

「違う」

短く、だが揺るぎのない声だった。
その一言は、夜の冷えた空気を断ち切るように強く、焚き火の音さえ一瞬遠のいたように感じられた。

「父親は、酒に呑まれた男だった」

右治衛は、焚き火の炎から目を逸らさずに続ける。

「村の噂も、己の鬱屈も、すべて春さんにぶつけていた」

低い声が、炎の揺れに合わせて静かに落ちていく。

「だが春さんは、最後の時まで――」

一拍、間を置く。

「お前だけを守り抜いた」

桜は、ゆっくりと視線を落とし、自分の胸元に浮かぶ桜の痣を見つめた。
火の明かりに照らされ、その印は淡く浮かび上がっている。

「……この印も……」

小さな声だった。
ほとんど独り言のように、こぼれ落ちる。

「母上が……守ってくれた証なの?」

右治衛の妻は、その問いを聞いて、一瞬だけ唇を噛んだ。
込み上げるものを抑えるように、深く息を吸い、それから、穏やかに微笑む。

「ええ、桜」

涙をこらえた声で、はっきりと言った。

「呪いでも、怪異でもないわ」

焚き火の赤が、彼女の頬を照らす。

「あなたは――」

一瞬の間。

「春さんが、命をかけて咲かせた花よ」

その言葉は、静かに、しかし確かに、桜の胸の奥へと落ちていった。