桜が七つを迎えた年の秋だった。
山間に設けられた一座の野営地は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。人の声も、笑い声も、行き交う足音もすでに消えている。残っているのは、焚き火がときおり爆ぜる乾いた音だけだった。
その音は夜気に吸い込まれるように細く伸び、澄んだ闇の中へと溶けていく。
一座の者たちは皆、長い一日の疲れを身体に残したまま、それぞれの寝床に身を横たえていた。粗末な敷物の上で深く眠りに落ちた者もいれば、焚き火の残り香を感じながら浅い眠りに沈んでいる者もいる。規則正しい寝息が重なり合い、野営地全体を静かに包み込んでいた。
その中で、焚き火のそばだけが、まだ完全には眠りに落ちていなかった。
右治衛の隣には、黙したまま杯に手を添える妻の姿もあった。
右治衛は、炎を挟んだ向こう側に座る桜の小さな背を、しばらく黙って見つめていた。
火の明かりが揺れるたび、桜の髪や頬に淡い光が映り、すぐに影へと沈んでいく。その様子を見つめながら、右治衛は何度か言葉を飲み込み、ようやく静かに名を呼んだ。
「桜……」
それは、いつもと変わらぬ呼び方だった。ただ名を呼んだだけのはずなのに、その声はどこか硬く、重たい響きを帯びている。夜の静けさの中では、その違いがはっきりと伝わってきた。
桜は焚き火を見つめていた視線を上げ、不思議そうに首をかしげる。それでも呼ばれた理由を問うことはせず、言われるままに膝を揃え、右治衛の近くへと寄って座った。火の熱が少し強くなり、頬にあたたかさを感じる。
「お前に、話しておかねばならぬことがある」
右治衛の妻は、夫の言葉に口を挟むことなく、ただ静かにその場を見守っていた。
右治衛の低く抑えられたその言葉と同時に、焚き火の炎が大きく揺れた。薪が崩れる音がして、赤い光と濃い影が交互に揺らめく。その陰影が右治衛の顔を覆い、表情を読み取ることを難しくしていた。
桜は、なぜか自然と背筋を伸ばしていた。理由は分からない。ただ胸の奥で、小さな不安が、かすかに鳴るようにして動いた。焚き火を見つめ直そうとしても、炎の揺れが目に入り、どうしても落ち着かなかった。
一瞬、沈黙が落ちた。
その沈黙は短いはずなのに、桜にはとても長く感じられた。薪が爆ぜる音と、遠くで鳴く虫の声だけが、やけに大きく耳に届く。右治衛が何かを言おうとしていることだけは、はっきりと伝わってきた。
右治衛は一度、ゆっくりと深く息を吸う。その動作は、胸の奥に溜め込んだものを吐き出す前の、ためらいのようにも見えた。
「……お前の母はな、春という名の、気丈で、優しい女だった」
その名を聞いた瞬間、桜の胸がきゅっと縮んだ。驚いたはずなのに、声は出なかった。胸の奥に、冷たいものとあたたかいものが同時に流れ込んでくるような、不思議な感覚が広がる。
知らないはずの名だった。これまで誰からも聞いたことがない。だが、その響きは、初めて耳にしたものとは思えなかった。まるで、ずっと前から胸の奥に置かれていたものが、静かに呼び起こされたかのようだった。
焚き火の炎が揺れ、その名は夜の空気の中へと溶けていく。それでも、その音だけは、確かに桜の胸の奥に残っていた。
ずっと前から、ここにあったかのように。
山間に設けられた一座の野営地は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。人の声も、笑い声も、行き交う足音もすでに消えている。残っているのは、焚き火がときおり爆ぜる乾いた音だけだった。
その音は夜気に吸い込まれるように細く伸び、澄んだ闇の中へと溶けていく。
一座の者たちは皆、長い一日の疲れを身体に残したまま、それぞれの寝床に身を横たえていた。粗末な敷物の上で深く眠りに落ちた者もいれば、焚き火の残り香を感じながら浅い眠りに沈んでいる者もいる。規則正しい寝息が重なり合い、野営地全体を静かに包み込んでいた。
その中で、焚き火のそばだけが、まだ完全には眠りに落ちていなかった。
右治衛の隣には、黙したまま杯に手を添える妻の姿もあった。
右治衛は、炎を挟んだ向こう側に座る桜の小さな背を、しばらく黙って見つめていた。
火の明かりが揺れるたび、桜の髪や頬に淡い光が映り、すぐに影へと沈んでいく。その様子を見つめながら、右治衛は何度か言葉を飲み込み、ようやく静かに名を呼んだ。
「桜……」
それは、いつもと変わらぬ呼び方だった。ただ名を呼んだだけのはずなのに、その声はどこか硬く、重たい響きを帯びている。夜の静けさの中では、その違いがはっきりと伝わってきた。
桜は焚き火を見つめていた視線を上げ、不思議そうに首をかしげる。それでも呼ばれた理由を問うことはせず、言われるままに膝を揃え、右治衛の近くへと寄って座った。火の熱が少し強くなり、頬にあたたかさを感じる。
「お前に、話しておかねばならぬことがある」
右治衛の妻は、夫の言葉に口を挟むことなく、ただ静かにその場を見守っていた。
右治衛の低く抑えられたその言葉と同時に、焚き火の炎が大きく揺れた。薪が崩れる音がして、赤い光と濃い影が交互に揺らめく。その陰影が右治衛の顔を覆い、表情を読み取ることを難しくしていた。
桜は、なぜか自然と背筋を伸ばしていた。理由は分からない。ただ胸の奥で、小さな不安が、かすかに鳴るようにして動いた。焚き火を見つめ直そうとしても、炎の揺れが目に入り、どうしても落ち着かなかった。
一瞬、沈黙が落ちた。
その沈黙は短いはずなのに、桜にはとても長く感じられた。薪が爆ぜる音と、遠くで鳴く虫の声だけが、やけに大きく耳に届く。右治衛が何かを言おうとしていることだけは、はっきりと伝わってきた。
右治衛は一度、ゆっくりと深く息を吸う。その動作は、胸の奥に溜め込んだものを吐き出す前の、ためらいのようにも見えた。
「……お前の母はな、春という名の、気丈で、優しい女だった」
その名を聞いた瞬間、桜の胸がきゅっと縮んだ。驚いたはずなのに、声は出なかった。胸の奥に、冷たいものとあたたかいものが同時に流れ込んでくるような、不思議な感覚が広がる。
知らないはずの名だった。これまで誰からも聞いたことがない。だが、その響きは、初めて耳にしたものとは思えなかった。まるで、ずっと前から胸の奥に置かれていたものが、静かに呼び起こされたかのようだった。
焚き火の炎が揺れ、その名は夜の空気の中へと溶けていく。それでも、その音だけは、確かに桜の胸の奥に残っていた。
ずっと前から、ここにあったかのように。



