月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

右治衛は、桜に舞を教えるとき、一度も「うまくやれ」と言わなかった。

型の出来や形の美しさを問うこともなく、失敗を責めることもなければ、成功を褒めることもない。

桜がどれほど不器用に身体を動かしても、どれほど拙い舞になっても、その評価を口にすることはなかった。

彼が口にするのは、いつも短い言葉だけ。

「立て」
「息を吸え」
「今は、止まれ」。

それだけで、それ以上の説明は与えられない。

命令のようにも聞こえるが、そこに押しつけがましさはなく、感情の揺れも感じられない。

怒りも、焦りも、期待すらも含まれていない声だった。

桜はその声を聞くたび、なぜか胸の奥がざわつき、わずかな戸惑いを覚える。




なぜ立つのか。

なぜ今、止まらなければならないのか。

なぜ次の動きを教えてくれないのか。




考えようとした瞬間、思考が身体の動きを追い越し、足がもつれる。

頭で理解しようとするほど、身体は遅れ、重心を失って前のめりになる。

次の瞬間、膝から地面に崩れ落ちた。

土の感触が直接体に伝わり、鈍い痛みが骨の奥深くにまで走りわたる。

踏み外した袖に足を取られ、手から離れた扇が乾いた音を立てて地面に転がった。

舞い上がった土の匂いが鼻を突き、息を吸い込むたびに喉の奥がひりつく。

立ち上がろうとすると、足が思うように動かない。

震えが止まらず、力を入れるほどに不安が増していく。

また転ぶのではないか。

また同じ失敗を繰り返すのではないか。

そんな考えが頭を埋め尽くし、桜は思わず視線を伏せた。

そのときだった。

右治衛は、そこにいた。

叱ることもなく、慰めることもなく、「気にするな」と声をかけることもしない。

ただ黙って、桜を見ている。

転んだ姿も、立ち上がろうとしてよろめく姿も、扇を拾おうとして震える指先も、そのすべてから目を逸らさなかった。

その視線は厳しいわけでも、優しいわけでもなかった。

評価も期待も同情もなく、ただ、そこに存在しているという事実だけが、揺るぎなく伝わってくる視線だった。

桜はその視線を感じながら、理由のわからない息苦しさと、同時に奇妙な安心感を覚えていた。



――見捨てないということは、見続けるということだ。



その意味を、桜はまだ知らない。

だが、舞台に立つたび、灯りの向こうに人の気配を感じるたび、胸の奥で同じ感覚が静かに蘇る。

逃げ出したくなる瞬間、身体が思うように動かなくなる夜、誰にも見られたくないと思うほど視線が怖くなるときでさえ、その感覚だけは消えなかった。

それでも、「ここにいていい」と思えるのは、かつて何も言わず、ただ目を逸らさずに見ていた人がいたからだ。

転んでも、立ち止まっても、うまく出来なくても、それでも視線だけは離れなかったという記憶が、桜を支えていた。



桜は、まだ知らない。



その視線が、いつか恐怖に変わることも、愛と呪いの境目になることも。


見続けられることが救いであると同時に、逃げ場を奪うものにもなり得ることを、今はまだ理解していない。


ただ、今は、説明できないその感覚だけが、身体の奥深くに静かに沈んでいく。


土の匂いと、荒い息の音。
そして、誰かに見続けられていた記憶と共に。


その感覚だけは確かに消えず、確実に、桜の胸に刻まれていった。