ある日、桜は自分の胸元の痣を、必死に布で隠そうとしていた。
小さな指で、何度も衣の端を引き寄せては、そっと覗き込み、
また慌てたように、引き直す。
鏡があるわけでもない。
それでも、そこにあることを、桜は確かに知っていた。
布の隙間から、かすかに覗く淡い色。
指先が触れるたび、胸の奥が、ひくりと跳ねる。
「……見せないほうがいい……」
呟く声は、まだ幼く、舌足らずだった。
だが、その音には、はっきりとした怯えが混じっていた。
誰かに教えられたわけでもない。
叱られたことがあるわけでもない。
それでも桜は、知っていた。
――これは、見せてはいけないもの。
――見られたら、何かが変わってしまうもの。
理由は、わからない。
ただ、そう思った。
衣を引く力が、少し強くなる。
小さな肩が、きゅっとすぼまった。
その様子を、右治衛の妻は、少し離れたところから見ていた。
すぐに声をかけることはしない。
近づくことも、しない。
桜の手が落ち着くまで、ただ、そこにいる。
やがて、ゆっくりと歩み寄り、桜の前に、静かに膝をついた。
目線を合わせるために、腰を落とし、
急かさぬように。
逃がさぬように。
「隠したいと思うなら、それでも良い」
穏やかな声だった。
正すでもなく、問い詰めるでもなく。
「でもね……」
ほんの一拍、言葉を置く。
その間に、桜の呼吸が、少し浅くなる。
「恥ずかしいものじゃない」
押しつけでも、慰めでもない。
ただ、静かに、そこへ置かれた言葉。
桜は、すぐに意味を掴めず、困ったように、視線を落とした。
布の下にあるものを、見ないようにしていたはずなのに、目を閉じると、そこだけが、はっきり浮かび上がる。
消えない。
洗っても、擦っても、日にちが経っても。
指先が、思わず伸びかけて、桜は慌てて、手を引っ込めた。
触れたら、何かがこぼれてしまいそうな気がした。
怖い、と思う。
でも同時に、そこに「ある」ことを、確かめてしまう自分もいる。
もし、これがなかったら。
自分は、どこか別の場所に行ってしまうのだろうか。
そんな考えが浮かんで、桜は、小さく首を振った。
わからないことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛む。
それでも、布の下で、痣は静かにそこにあった。
逃げもせず、責めもせず、ただ、桜と一緒にいるみたいに。
桜は、それを言葉にしようとして、やめた。
うまく言えないことは、口にすると、壊れてしまいそうだったから。
足元を見る。
自分の指先を見る。
そして、また、胸元の布を、ぎゅっと握る。
「……でも……」
小さな声が、喉の奥で止まる。
少しの沈黙。
それから――
「……母ちゃん……」
その一言で、空気が止まった。
右治衛の妻の指が、わずかに、動きを止める。
呼吸が、ほんの一瞬、浅くなる。
桜は、それに気づかない。
気づかないまま、言葉の続きを探すように、唇を噛んだ。
母の顔を、桜はほとんど覚えていない。
声も、呼ばれ方も、思い出せない。
それでも――
抱きしめられた記憶だけは、残っていた。
夜になると、突然、思い出す。
理由もなく胸が苦しくなったとき、確かに、あったはずの温もり。
強くもなく、弱くもなく、ただ、離れないと知っている腕。
――守られていた、という感覚。
それだけが、言葉にならないまま、桜の中に、沈んで残っていた。
右治衛の妻は、何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、そっと、桜の手に触れる。
指を絡めるでもなく、引き寄せるでもなく、そこにいると伝えるだけの距離。
「……大丈夫よ」
低く、静かな声だった。
「隠したいなら、隠していい」
「でも、忘れなくていい」
何を、とは言わなかった。
桜は、その言葉を、胸の奥に、そっとしまった。
布を引く力が、ほんの少し、緩む。
桜は、まだ痣を隠している。
見せる勇気は、ない。
それでも、隠しながらでも、生きていていいのだと、初めて知った。
――守られた記憶は、
――消えなくていい。
それだけで、桜の足は、また一歩、前に出られるのだった。
小さな指で、何度も衣の端を引き寄せては、そっと覗き込み、
また慌てたように、引き直す。
鏡があるわけでもない。
それでも、そこにあることを、桜は確かに知っていた。
布の隙間から、かすかに覗く淡い色。
指先が触れるたび、胸の奥が、ひくりと跳ねる。
「……見せないほうがいい……」
呟く声は、まだ幼く、舌足らずだった。
だが、その音には、はっきりとした怯えが混じっていた。
誰かに教えられたわけでもない。
叱られたことがあるわけでもない。
それでも桜は、知っていた。
――これは、見せてはいけないもの。
――見られたら、何かが変わってしまうもの。
理由は、わからない。
ただ、そう思った。
衣を引く力が、少し強くなる。
小さな肩が、きゅっとすぼまった。
その様子を、右治衛の妻は、少し離れたところから見ていた。
すぐに声をかけることはしない。
近づくことも、しない。
桜の手が落ち着くまで、ただ、そこにいる。
やがて、ゆっくりと歩み寄り、桜の前に、静かに膝をついた。
目線を合わせるために、腰を落とし、
急かさぬように。
逃がさぬように。
「隠したいと思うなら、それでも良い」
穏やかな声だった。
正すでもなく、問い詰めるでもなく。
「でもね……」
ほんの一拍、言葉を置く。
その間に、桜の呼吸が、少し浅くなる。
「恥ずかしいものじゃない」
押しつけでも、慰めでもない。
ただ、静かに、そこへ置かれた言葉。
桜は、すぐに意味を掴めず、困ったように、視線を落とした。
布の下にあるものを、見ないようにしていたはずなのに、目を閉じると、そこだけが、はっきり浮かび上がる。
消えない。
洗っても、擦っても、日にちが経っても。
指先が、思わず伸びかけて、桜は慌てて、手を引っ込めた。
触れたら、何かがこぼれてしまいそうな気がした。
怖い、と思う。
でも同時に、そこに「ある」ことを、確かめてしまう自分もいる。
もし、これがなかったら。
自分は、どこか別の場所に行ってしまうのだろうか。
そんな考えが浮かんで、桜は、小さく首を振った。
わからないことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛む。
それでも、布の下で、痣は静かにそこにあった。
逃げもせず、責めもせず、ただ、桜と一緒にいるみたいに。
桜は、それを言葉にしようとして、やめた。
うまく言えないことは、口にすると、壊れてしまいそうだったから。
足元を見る。
自分の指先を見る。
そして、また、胸元の布を、ぎゅっと握る。
「……でも……」
小さな声が、喉の奥で止まる。
少しの沈黙。
それから――
「……母ちゃん……」
その一言で、空気が止まった。
右治衛の妻の指が、わずかに、動きを止める。
呼吸が、ほんの一瞬、浅くなる。
桜は、それに気づかない。
気づかないまま、言葉の続きを探すように、唇を噛んだ。
母の顔を、桜はほとんど覚えていない。
声も、呼ばれ方も、思い出せない。
それでも――
抱きしめられた記憶だけは、残っていた。
夜になると、突然、思い出す。
理由もなく胸が苦しくなったとき、確かに、あったはずの温もり。
強くもなく、弱くもなく、ただ、離れないと知っている腕。
――守られていた、という感覚。
それだけが、言葉にならないまま、桜の中に、沈んで残っていた。
右治衛の妻は、何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、そっと、桜の手に触れる。
指を絡めるでもなく、引き寄せるでもなく、そこにいると伝えるだけの距離。
「……大丈夫よ」
低く、静かな声だった。
「隠したいなら、隠していい」
「でも、忘れなくていい」
何を、とは言わなかった。
桜は、その言葉を、胸の奥に、そっとしまった。
布を引く力が、ほんの少し、緩む。
桜は、まだ痣を隠している。
見せる勇気は、ない。
それでも、隠しながらでも、生きていていいのだと、初めて知った。
――守られた記憶は、
――消えなくていい。
それだけで、桜の足は、また一歩、前に出られるのだった。



