だから右治衛は、桜に「捨てるぞ」「置いていくぞ」とは、決して言わなかった。
それが、どれほど簡単な脅しの言葉であるかを、右治衛はよく知っていた。
一座では、子どもに向けた叱責や脅しは、珍しいことではない。
芸が遅れれば、
足並みを乱せば、
場の空気を壊せば、
「次は置いていくぞ」
「ここで降りろ」
そんな言葉が、冗談とも本気ともつかぬ調子で飛ぶ。
土地を持たぬ一座にとって、“置いていく”という言葉は、躾であり、現実であり、そして事実でもあった。
だが、右治衛は、それを口にしなかった。
桜が転んだときも、芸の真似がうまくできず、場を止めてしまったときも、夜中に泣き出し、一座の眠りを乱したときも。
叱ることはあった。
声を荒らげることもあった。
だが、最後には必ず、同じ言葉を、変えずに添えた。
「だがな、桜。ここに戻ってくれば、それでいい」
戻る場所があること。
戻っても、追い払われないこと。
それを、言葉にして残す。
右治衛は、それだけは欠かさなかった。
桜は、まだ幼く言葉の意味を、正確に理解していたわけではない。
けれど、
その音の形を、
その響きを、
そのあとに訪れる沈黙の安全さを、
身体で覚えていった。
失敗しても、
怒られても、
泣いてしまっても。
――戻っていい。
その感覚が、桜の足を、地につなぎ止めていた。
夜、眠りにつく前。
不意に不安が胸を締めつけたとき。
桜は、無意識に、焚き火のある方を見た。
人の気配が集まる方へ、身を寄せた。
そこに戻れば、誰かがいる。
その確信が、夜を越える力になっていった。
右治衛は、それを見ていた。
桜が、何も言わずに、
それでも一人で立ち上がり、
泣き止み、
また輪の中へ戻ってくる姿を。
守るとは、抱き続けることではない。
逃げ場を残すことでもない。
――戻ってきていい、と、何度でも伝えること。
右治衛は、そう思っていた。
桜は、一度、置いていかれている。
――それから、いくつかの季が過ぎ……
桜は、もう、赤子ではなかった。
夜の焚き火まで、自分の足で歩けるほどには、背も伸びていた。
転べば、泣く。
だが、すぐには泣かない。
一度、唇を噛み、それから、火のそばへ戻る。
泣きながらではなく、泣く前に戻ってくる。
それが、この一座で過ごした時間の、確かな重さだった。
だからこそ、「置いていかない」と言うのではなく、「戻ってこい」と言い続ける。
その言葉は、やがて、桜の中で、自分自身に向けられる声になるだろう。
失敗してもいい。
怖くなってもいい。
それでも――戻ればいい。
その夜も、桜は、火のそばで眠っていた。
もう、袖を掴んではいない。
だが、夢の底で、確かに知っている。
自分には、戻る場所があるのだと。
それが、どれほど簡単な脅しの言葉であるかを、右治衛はよく知っていた。
一座では、子どもに向けた叱責や脅しは、珍しいことではない。
芸が遅れれば、
足並みを乱せば、
場の空気を壊せば、
「次は置いていくぞ」
「ここで降りろ」
そんな言葉が、冗談とも本気ともつかぬ調子で飛ぶ。
土地を持たぬ一座にとって、“置いていく”という言葉は、躾であり、現実であり、そして事実でもあった。
だが、右治衛は、それを口にしなかった。
桜が転んだときも、芸の真似がうまくできず、場を止めてしまったときも、夜中に泣き出し、一座の眠りを乱したときも。
叱ることはあった。
声を荒らげることもあった。
だが、最後には必ず、同じ言葉を、変えずに添えた。
「だがな、桜。ここに戻ってくれば、それでいい」
戻る場所があること。
戻っても、追い払われないこと。
それを、言葉にして残す。
右治衛は、それだけは欠かさなかった。
桜は、まだ幼く言葉の意味を、正確に理解していたわけではない。
けれど、
その音の形を、
その響きを、
そのあとに訪れる沈黙の安全さを、
身体で覚えていった。
失敗しても、
怒られても、
泣いてしまっても。
――戻っていい。
その感覚が、桜の足を、地につなぎ止めていた。
夜、眠りにつく前。
不意に不安が胸を締めつけたとき。
桜は、無意識に、焚き火のある方を見た。
人の気配が集まる方へ、身を寄せた。
そこに戻れば、誰かがいる。
その確信が、夜を越える力になっていった。
右治衛は、それを見ていた。
桜が、何も言わずに、
それでも一人で立ち上がり、
泣き止み、
また輪の中へ戻ってくる姿を。
守るとは、抱き続けることではない。
逃げ場を残すことでもない。
――戻ってきていい、と、何度でも伝えること。
右治衛は、そう思っていた。
桜は、一度、置いていかれている。
――それから、いくつかの季が過ぎ……
桜は、もう、赤子ではなかった。
夜の焚き火まで、自分の足で歩けるほどには、背も伸びていた。
転べば、泣く。
だが、すぐには泣かない。
一度、唇を噛み、それから、火のそばへ戻る。
泣きながらではなく、泣く前に戻ってくる。
それが、この一座で過ごした時間の、確かな重さだった。
だからこそ、「置いていかない」と言うのではなく、「戻ってこい」と言い続ける。
その言葉は、やがて、桜の中で、自分自身に向けられる声になるだろう。
失敗してもいい。
怖くなってもいい。
それでも――戻ればいい。
その夜も、桜は、火のそばで眠っていた。
もう、袖を掴んではいない。
だが、夢の底で、確かに知っている。
自分には、戻る場所があるのだと。



