月下櫻涙―花に散り、月に生きて―

右治衛夫妻が営んでいるのは、土地に縛られぬ芸妓一座。

祭や市のある町を渡り歩き、宴の夜に芸を見せ、夜明け前には荷をまとめる。

定まった家は持たないが、火と布と人の輪だけは、決して欠かさなかった。

行き場を失った者。
噂に居場所を奪われた者。
戻る家を持たぬ者。

そうした人間を、理由を問わず受け入れ、名も過去も追わない。

それが、右治衛と妻が決めた、この一座の在り方だった。

桜が一座に連れられて旅に出て、まだ間もない頃のことだった。

昼間は、人の声と物音に包まれている。

荷車の軋む音、芸の稽古で鳴る拍子木、火を起こす匂い。

誰かが常にそばにいるから、桜は泣かなかった。

だが、夜になると、違った。

火が落とされ、幕が下ろされ、あたりが静まり返る。

昼間は賑わっていた空間が、嘘のように空洞になる。

その闇が来るのを、桜は、まだ言葉も持たぬ身体で知っていた。

夜になると、桜は必ず、右治衛の妻の袖を握って離さなかった。

眠っているはずなのに、指先だけは布を掴んでいる。

その力は弱々しく、それでも必死だった。

引き離そうとすると、びくりと身体が跳ねる。

小さな胸が大きく上下し、喉の奥で、くぐもった音が鳴る。

泣かない。
声は出さない。

けれどそれは、眠っているからではない。

――泣く前に、置いていかれる。

それを、身体が覚えてしまっていた。

寝息は浅く、ときおり小さく喉を鳴らす。

そのたびに、指先の力が、ほんのわずかに強くなる。

まるで、闇の中で、誰かの背を探しているかのように。

夢の中で、
何度も、
何度も、
誰かに手を離されているのだと、
それは見ている者にも、はっきりと伝わってきた。

「……大丈夫だよ」

右治衛の妻は、低く、静かな声でそう囁いた。

声を張らず、急がず、ただ、そこにいると伝えるように。

桜は目を開けぬまま、ほんのわずかに頷く。

その動きは、信じたいと願う者の、ぎりぎりの合図のようだった。

妻は、そのまま袖を引かれた姿勢で、動かなかった。

布越しに伝わる体温が、桜を現実につなぎ止めているのを、理解していたからだ。

焚き火の赤が、闇の中で揺れている。

その少し離れた場所で、右治衛は、黙ってその光景を見ていた。

小さな背中。

それを包む影。

そして、決して離れない指。

右治衛は、胸の奥に、鈍い痛みを覚えていた。

――この子は、
――一度、置いていかれている。

それは、推測ではない。
事実として、身体に刻まれたものだった。

声を上げても、助けは来なかった夜。
泣くことさえ許されず、ただ冷えていった時間。

右治衛は、自分が「間に合わなかった」人間であることを、否定できなかった。

もし、あの夜。
もし、もう少し早く。
もし、弟の前に立ったのが、あの一度きりでなければ。

考えるたびに、答えのない後悔だけが、胸に沈む。

焚き火が、ぱちりと音を立てた途端、桜の指が、一瞬、強く布を掴む。

妻は何も言わず、ただ、そっと息を整えた。

守るということは、奪われたものを、取り戻すことではない。

失われたあとも、それでも、生きていていいと、夜を越えさせることだ。

右治衛は、そう思った。

この子は、すでに一度、世界に捨てられている。

だが、二度目だけは――

起こさせない。

焚き火の向こうで、夜が深まっていく。

桜は、まだ眠っている。

袖を握ったまま、離される夢を、何度も見ながら。

けれど、その指が掴んでいるものは、もう、闇ではなかった。