56話 満たされた夜
「部屋、戻ろっか」
「うん」
並んで歩くけど、手は繋がない。
肩が触れそうで触れない距離。
廊下の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。
部屋の前で立ち止まる。
「……今日は、楽しかったな」
「うん。ほんとに」
鍵を開けて、中に入る。
ガチャリ、と音がして、ドアが閉まる。
それだけで、空気が少し変わった。
でも、大地はすぐにソファに向かって、上着を脱ぐ。
「……さすがに眠くなってきた」
「ふふ。さっき寝てたのに?」
それはそれ」
二人して笑って、さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどけた。
「大地、寝る前に歯磨きだよ」
「お、さすが歯科衛生士」
「もっちろん。歯は大事なんだからね」
そんな軽いやりとりをしながら、洗面所へ向かう。
並んで立つと、さっきまで一緒にいた距離と同じはずなのに、妙に近く感じて、どちらからともなく視線を逸らした。
シャー、という水の音。
歯ブラシの小さな音だけが響く。
(……なんか、照れる)
みいなは鏡越しにちらっと大地を見る。
大地も、同じタイミングで視線を外していて、思わず口元が緩んだ。
先に部屋へ戻ったみいなは、ダブルベッドの端に腰を下ろした。
柔らかなシーツが、湯上がりの身体を受け止める。
少し遅れて戻ってきた大地が、壁のスイッチに手を伸ばす。
灯りがひとつ落ちて、部屋の輪郭がやわらかく滲んだ。
「……静かだな」
「うん」
窓の外から聞こえるのは、夜の温泉街の控えめな音だけ。
みいなは髪を耳にかけながら、落ち着かない気持ちで視線を落とす。
大地は隣で、いつもより少し背筋を伸ばして座っていた。
沈黙を破ったのは、大地だった。
ためらうみたいに、ゆっくりと身体を寄せる。
視線が絡んで――次の瞬間、頬に触れるぬくもり。
大地の手が、みいなのほっぺにそっと伸びた。
「……」
軽く引き寄せられて、唇が触れる。
深くも、急でもない、確かめるみたいなキス。
(あ……はじまる……)
一瞬、身体が強張る。
心臓が跳ねて、息が止まりそうになる。
けれど――
大地はそれ以上、近づいてこなかった。
名残惜しそうに唇を離し、距離を保ったまま、静かに言う。
「……みいな」
低い声。
でも、どこか抑えている響き。
「今日は俺……このまま、一緒にいるだけでいい」
「……え?」
みいなが顔を上げると、大地は困ったように、でも真剣な目で続けた。
「今日さ……やっと気持ち確認できてさ。
それだけで、もう十分だと思ってる」
一呼吸おいて。
「勢いで壊したくない。
今日が、嫌な思い出になるの、嫌なんだ」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
さっきの不安が、すっとほどけていった。
「……うん」
みいなは小さく頷く。
「わたしも……今日、ちゃんと大地の気持ち聞けただけで、いっぱい」
一拍おいて、みいなは照れたように付け足す。
「……おなかも、いっぱいだし」
その言葉に、大地は一瞬きょとんとしてから、ふっと息を吐いた。
少し力が抜けたみたいに、視線を逸らす。
「……じゃあさ」
間を置いて、低く続ける。
「手、繋いでもいい?」
その言い方が、ずるいくらい優しくて。
みいなは思わず、くすっと笑った。
「……うん」
ベッドの上で、指先が触れる。
絡めるほどでもない、でも離れない距離。
そのまま並んで横になると、天井の灯りがやわらかく滲んで見えた。
深呼吸すると、部屋に漂うアロマの香りが、自然と鼻をくすぐった。
(……あぁ)
手の温度と香りだけで、こんなに安心するなんて。
大地の呼吸が、すぐ隣で一定のリズムを刻んでいる。
みいなは、そっと目を閉じた。
「……おやすみ」
「おやすみ、みいな」
手を繋いだまま、何もしない夜。
でも確かに、始まったと思える夜だった。
「部屋、戻ろっか」
「うん」
並んで歩くけど、手は繋がない。
肩が触れそうで触れない距離。
廊下の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。
部屋の前で立ち止まる。
「……今日は、楽しかったな」
「うん。ほんとに」
鍵を開けて、中に入る。
ガチャリ、と音がして、ドアが閉まる。
それだけで、空気が少し変わった。
でも、大地はすぐにソファに向かって、上着を脱ぐ。
「……さすがに眠くなってきた」
「ふふ。さっき寝てたのに?」
それはそれ」
二人して笑って、さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどけた。
「大地、寝る前に歯磨きだよ」
「お、さすが歯科衛生士」
「もっちろん。歯は大事なんだからね」
そんな軽いやりとりをしながら、洗面所へ向かう。
並んで立つと、さっきまで一緒にいた距離と同じはずなのに、妙に近く感じて、どちらからともなく視線を逸らした。
シャー、という水の音。
歯ブラシの小さな音だけが響く。
(……なんか、照れる)
みいなは鏡越しにちらっと大地を見る。
大地も、同じタイミングで視線を外していて、思わず口元が緩んだ。
先に部屋へ戻ったみいなは、ダブルベッドの端に腰を下ろした。
柔らかなシーツが、湯上がりの身体を受け止める。
少し遅れて戻ってきた大地が、壁のスイッチに手を伸ばす。
灯りがひとつ落ちて、部屋の輪郭がやわらかく滲んだ。
「……静かだな」
「うん」
窓の外から聞こえるのは、夜の温泉街の控えめな音だけ。
みいなは髪を耳にかけながら、落ち着かない気持ちで視線を落とす。
大地は隣で、いつもより少し背筋を伸ばして座っていた。
沈黙を破ったのは、大地だった。
ためらうみたいに、ゆっくりと身体を寄せる。
視線が絡んで――次の瞬間、頬に触れるぬくもり。
大地の手が、みいなのほっぺにそっと伸びた。
「……」
軽く引き寄せられて、唇が触れる。
深くも、急でもない、確かめるみたいなキス。
(あ……はじまる……)
一瞬、身体が強張る。
心臓が跳ねて、息が止まりそうになる。
けれど――
大地はそれ以上、近づいてこなかった。
名残惜しそうに唇を離し、距離を保ったまま、静かに言う。
「……みいな」
低い声。
でも、どこか抑えている響き。
「今日は俺……このまま、一緒にいるだけでいい」
「……え?」
みいなが顔を上げると、大地は困ったように、でも真剣な目で続けた。
「今日さ……やっと気持ち確認できてさ。
それだけで、もう十分だと思ってる」
一呼吸おいて。
「勢いで壊したくない。
今日が、嫌な思い出になるの、嫌なんだ」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
さっきの不安が、すっとほどけていった。
「……うん」
みいなは小さく頷く。
「わたしも……今日、ちゃんと大地の気持ち聞けただけで、いっぱい」
一拍おいて、みいなは照れたように付け足す。
「……おなかも、いっぱいだし」
その言葉に、大地は一瞬きょとんとしてから、ふっと息を吐いた。
少し力が抜けたみたいに、視線を逸らす。
「……じゃあさ」
間を置いて、低く続ける。
「手、繋いでもいい?」
その言い方が、ずるいくらい優しくて。
みいなは思わず、くすっと笑った。
「……うん」
ベッドの上で、指先が触れる。
絡めるほどでもない、でも離れない距離。
そのまま並んで横になると、天井の灯りがやわらかく滲んで見えた。
深呼吸すると、部屋に漂うアロマの香りが、自然と鼻をくすぐった。
(……あぁ)
手の温度と香りだけで、こんなに安心するなんて。
大地の呼吸が、すぐ隣で一定のリズムを刻んでいる。
みいなは、そっと目を閉じた。
「……おやすみ」
「おやすみ、みいな」
手を繋いだまま、何もしない夜。
でも確かに、始まったと思える夜だった。
