32歳 新たなる挑戦
「正社員って言ったって、さ……東京で生活してくには、正直、苦しいよ」
夜の川沿い。風が頬を撫でるベンチで、龍太郎はぽつりと口を開いた。隣で缶コーヒーを両手で包みながら、真子は黙って彼の横顔を見ていた。遠くで工事の音が、時間をずらして響いてくる。都市は眠らない。けれど、そこに生きる者の心までは、誰も照らしてはくれない。
「結婚なんて、簡単に言えない。……生活のこと、親のこと、仕事のこと、いろいろあるし」
龍太郎は、言葉を切るたびに、自分が言い訳を並べているような気がして、息が詰まった。
「でも、逃げたいわけじゃないんだ」
彼は自分の足元を見た。白いスニーカーのつま先が、砂利に半分埋まっている。
「むしろ、ちゃんと向き合いたい。だから……いまのままじゃ、まだ、怖いんだ」
真子は、しばらく何も言わなかった。それから、缶コーヒーを口に運び、小さく笑った。
「ふうん。じゃあ、こっちはずっと非常勤で、給料も不安定で、家賃で半分消えて、冬は石油ストーブで頑張ってたけど」
「……」
「私のほうが、もっと結婚に向いてなかったんじゃない?」
いたずらっぽい目だった。でもその奥には、確かな覚悟が宿っていた。
「お金は大事。でも、あんたがとなりにいれば、なんとかなる。そう思ってる自分がいてさ」
真子は、小さく肩をすくめた。
「呑気すぎるって、怒る?」
「……怒れないよ」
龍太郎は、空を見上げた。都会の夜空は、星の代わりにビルのネオンがまたたいている。
「でも、そうやって言ってくれるのが、救いだ」
その夜、ふたりは答えを出さなかった。けれど、言葉と沈黙を交わしたこと自体が、答えの入り口のような気がしていた。
真子が東京での出張を終え、熊本に戻ってから一週間後の夜だった。スマートフォンの画面に「龍太郎」の名前が灯ったとき、真子の胸は、理由もなく高鳴った。
「会社、辞めて熊本に帰るよ」
受話器越しに響いたその言葉に、しばらく真子は言葉を返せなかった。
「……え? 何があったの?」
「別に何があったってわけじゃないよ。……いや、いろいろは、あったけどさ」
龍太郎の声は、決意と不安の間で揺れていた。
「ずっと考えてた。東京に残って、それなりの給料もらって、それなりに生きるのも悪くないって。でも、ふと気づいたんだ。俺、何がしたかったんだろうって」
「何がしたかったの?」
「……たぶん、“そばにいる”ってこと。誰かの近くで、自分の言葉で、手で、できることをしたい。そう思ったら、職場じゃなくて、場所じゃなくて、人だったんだってわかった」
真子は、目を閉じた。東京の夜、改札で見た彼の不器用な笑顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
「不安じゃないの?」
「あるよ。正直、めちゃくちゃ怖い。でも、怖いままで突っ立ってるよりは、動くほうがマシかなって」
「仕事は、どうするの?」
「決めてない。だけど、挑戦してみたいんだ。ゼロから何かを始めるってことを。32歳で、ようやく、自分の人生を選びたいと思った」
電話の向こう、沈黙が訪れた。その沈黙を破ったのは、真子の静かな声だった。
「――おかえり、龍太郎」
それだけだった。でも、それだけで、すべてが報われたような気がした。
熊本に戻って数週間。引っ越しの片づけも落ち着いた頃、龍太郎は、姉・美和子から一通のメールを受け取った。
件名はただ、「少し話がある」。
姉は42歳。10歳年上で、長年、障害者支援の分野でキャリアを積んできた。結婚には縁がなかったが、その代わり、仕事と社会との関わりに全てを注いできた人だった。その姉が、この春、独立して障害者相談支援事業所を立ち上げたのだった。カフェで向かい合った姉は、まっすぐに龍太郎を見た。
「そろそろ、次の一歩を踏み出してもいいと思うの。あんたは大学も出てるし、いまからでも資格は取れる。社会福祉士と精神保健福祉士。私がやってる事業、ゆくゆくはあんたに継いでもらいたいと思ってる」
思いがけない提案だった。けれど、龍太郎の返事は、思った以上に早かった。
「うん、やってみるよ。勉強、久しぶりだけど、たぶん今なら頑張れる」
美和子の目が、ほんの一瞬、潤んだように見えた。
「……ありがとう」
その夜、真子に報告すると、彼女はしばらく黙ってから、にっこり笑った。
「そっか。似合ってると思うよ、福祉の仕事。龍ちゃん、昔から誰かのために黙って動ける人だったもん」
「真子は……どうする?」
「私はこのまま、会社で頑張る。やっと仕事が面白くなってきたところだし」
それは、離れるという意味ではなかった。それぞれの場所で、それぞれの道を歩く、という意味だった。
「また、離れ離れになるな」
龍太郎のつぶやきに、真子は言った。
「今度は、心は離さないから、大丈夫」
「正社員って言ったって、さ……東京で生活してくには、正直、苦しいよ」
夜の川沿い。風が頬を撫でるベンチで、龍太郎はぽつりと口を開いた。隣で缶コーヒーを両手で包みながら、真子は黙って彼の横顔を見ていた。遠くで工事の音が、時間をずらして響いてくる。都市は眠らない。けれど、そこに生きる者の心までは、誰も照らしてはくれない。
「結婚なんて、簡単に言えない。……生活のこと、親のこと、仕事のこと、いろいろあるし」
龍太郎は、言葉を切るたびに、自分が言い訳を並べているような気がして、息が詰まった。
「でも、逃げたいわけじゃないんだ」
彼は自分の足元を見た。白いスニーカーのつま先が、砂利に半分埋まっている。
「むしろ、ちゃんと向き合いたい。だから……いまのままじゃ、まだ、怖いんだ」
真子は、しばらく何も言わなかった。それから、缶コーヒーを口に運び、小さく笑った。
「ふうん。じゃあ、こっちはずっと非常勤で、給料も不安定で、家賃で半分消えて、冬は石油ストーブで頑張ってたけど」
「……」
「私のほうが、もっと結婚に向いてなかったんじゃない?」
いたずらっぽい目だった。でもその奥には、確かな覚悟が宿っていた。
「お金は大事。でも、あんたがとなりにいれば、なんとかなる。そう思ってる自分がいてさ」
真子は、小さく肩をすくめた。
「呑気すぎるって、怒る?」
「……怒れないよ」
龍太郎は、空を見上げた。都会の夜空は、星の代わりにビルのネオンがまたたいている。
「でも、そうやって言ってくれるのが、救いだ」
その夜、ふたりは答えを出さなかった。けれど、言葉と沈黙を交わしたこと自体が、答えの入り口のような気がしていた。
真子が東京での出張を終え、熊本に戻ってから一週間後の夜だった。スマートフォンの画面に「龍太郎」の名前が灯ったとき、真子の胸は、理由もなく高鳴った。
「会社、辞めて熊本に帰るよ」
受話器越しに響いたその言葉に、しばらく真子は言葉を返せなかった。
「……え? 何があったの?」
「別に何があったってわけじゃないよ。……いや、いろいろは、あったけどさ」
龍太郎の声は、決意と不安の間で揺れていた。
「ずっと考えてた。東京に残って、それなりの給料もらって、それなりに生きるのも悪くないって。でも、ふと気づいたんだ。俺、何がしたかったんだろうって」
「何がしたかったの?」
「……たぶん、“そばにいる”ってこと。誰かの近くで、自分の言葉で、手で、できることをしたい。そう思ったら、職場じゃなくて、場所じゃなくて、人だったんだってわかった」
真子は、目を閉じた。東京の夜、改札で見た彼の不器用な笑顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
「不安じゃないの?」
「あるよ。正直、めちゃくちゃ怖い。でも、怖いままで突っ立ってるよりは、動くほうがマシかなって」
「仕事は、どうするの?」
「決めてない。だけど、挑戦してみたいんだ。ゼロから何かを始めるってことを。32歳で、ようやく、自分の人生を選びたいと思った」
電話の向こう、沈黙が訪れた。その沈黙を破ったのは、真子の静かな声だった。
「――おかえり、龍太郎」
それだけだった。でも、それだけで、すべてが報われたような気がした。
熊本に戻って数週間。引っ越しの片づけも落ち着いた頃、龍太郎は、姉・美和子から一通のメールを受け取った。
件名はただ、「少し話がある」。
姉は42歳。10歳年上で、長年、障害者支援の分野でキャリアを積んできた。結婚には縁がなかったが、その代わり、仕事と社会との関わりに全てを注いできた人だった。その姉が、この春、独立して障害者相談支援事業所を立ち上げたのだった。カフェで向かい合った姉は、まっすぐに龍太郎を見た。
「そろそろ、次の一歩を踏み出してもいいと思うの。あんたは大学も出てるし、いまからでも資格は取れる。社会福祉士と精神保健福祉士。私がやってる事業、ゆくゆくはあんたに継いでもらいたいと思ってる」
思いがけない提案だった。けれど、龍太郎の返事は、思った以上に早かった。
「うん、やってみるよ。勉強、久しぶりだけど、たぶん今なら頑張れる」
美和子の目が、ほんの一瞬、潤んだように見えた。
「……ありがとう」
その夜、真子に報告すると、彼女はしばらく黙ってから、にっこり笑った。
「そっか。似合ってると思うよ、福祉の仕事。龍ちゃん、昔から誰かのために黙って動ける人だったもん」
「真子は……どうする?」
「私はこのまま、会社で頑張る。やっと仕事が面白くなってきたところだし」
それは、離れるという意味ではなかった。それぞれの場所で、それぞれの道を歩く、という意味だった。
「また、離れ離れになるな」
龍太郎のつぶやきに、真子は言った。
「今度は、心は離さないから、大丈夫」



