改訂版 タイムリミットは三年のプロポーズ

再会の夜

入社して二年が過ぎた。
毎日、朝九時から夕方五時まで。機械のように働き、時には残業にも応じた。それが会社員という名の役割ならば、龍太郎はそれを演じきってきたといってよかった。地元を離れ、本社勤務。わずかに二年だが、彼にとっては十分すぎる時間だった。真子が東京に来ると聞いたのは、三日前の朝だった。社内メールに混じって届いた通達には、「新規赴任者・荻野真子、〇月〇日より本社出張開始」とだけあった。冷たいフォーマットに、彼女の名前だけが妙に熱を帯びて浮かんでいた。
「お前、迎えに行ってやれ」と、工場長がぽつりと命じたのは、その翌日。いつもは事務的な言葉しか口にしない人だったのに、その声には、少しだけ思いやりの温度が混じっていた。理由は訊かなくてもわかっていた。工場長は、二人がかつて同じ職場にいたことを知っていた。あるいは、それ以上の何かを察していたのかもしれない。真子は、追いかけるようにやって来た。いや、正確には「押しかけた」という表現の方が近いのかもしれない。地方の営業所での仕事が気に入らなかったのか、あるいは龍太郎のそばにいたかったのか、それは彼女の胸の内にしまわれたままだった。
龍太郎の月給は、手取りで二十万。決して多くはないが、正社員としての肩書きは、彼にとって誇りだった。それでも、真子の前に立つと、不思議と自分が貧しく見えてしまうことがあった。彼女の笑顔には、理由もなく人の気持ちを照らす力があった。その日、彼は東京駅の改札で真子を待っていた。改札の向こう、スーツケースを引きながらこちらに歩いてくる彼女の姿を見つけた瞬間、龍太郎は小さく息を呑んだ。
久しぶりに見る真子の顔は、記憶よりも少し大人びていて、それがなぜか、少しだけ寂しかった。遠距離恋愛という言葉は、あまりにもありふれている。でも、会えなかった時間、言葉にできなかった想い、交わせなかった視線の重さは、やはり現実だった。改札の向こうで真子が手を振った。龍太郎も、無言で手を挙げた。言葉はなかった。けれど、その瞬間だけは、ふたりの距離が、ほんの少し縮んだ気がした。

改札を出た真子は、スーツケースの車輪を転がしながら、何も言わずに龍太郎の隣に立った。時間は午後六時を過ぎていた。六月の東京は、まだ薄明るい。照りつける西日の名残が、駅の天井に影絵のような模様を描いていた。
「荷物、持つよ」と龍太郎が言うと、
「ううん、大丈夫」と、真子はかすかに首を横に振った。それから二人は、並んで歩き出した。会話はなかったが、不思議と気まずさはなかった。歩幅のずれを、どちらからともなく調整するようにして、自然と足並みが揃っていく。本社が手配したビジネスホテルは、駅から徒歩五分の場所にあった。ビルの谷間にひっそりと建つ、その無機質な建物の前で、ふたりは立ち止まった。
「ここでいいんだよね?」
「うん」
それだけで、すべてが済んでしまうような、簡潔すぎるやり取りだった。
チェックインを終え、ロビーのソファで再び顔を合わせたとき、龍太郎はふと口を開いた。
「飯、食ってく?」
真子は小さく頷いた。ホテルのすぐ裏手に、居酒屋のような洋食屋があった。年季の入った木の引き戸をくぐると、カウンターの奥で年配の夫婦が働いていた。
店内は、ほのかに焦げたバターの匂いが漂っていた。
「お二人さん、テーブルでいい?」
店主の問いかけに、真子が笑って「はい」と答える。
その声に、龍太郎は少しだけ肩の力を抜いた。メニューの裏に隠された日替わり定食は、チキンカツとナポリタンだった。二人とも、それを頼んだ。飲み物は、ビールを一本だけ。真子がグラスを持ち、龍太郎が注いだ。乾杯の言葉もなく、ただグラスが触れ合う音だけが、控えめに響いた。
「……変わってないね」
真子がつぶやいた。どこを、とは言わなかった。
「そっちは、変わったな」
龍太郎も応える。声は、どこか寂しげだった。それきり、しばらくは箸の音と店内のラジオだけが会話の代わりを務めた。真子はナポリタンを一口食べ、ふと窓の外を見た。ビルの谷間に、夜が少しずつ降りてきていた。
「向こうの営業所、うるさくてさ。合わなかった」
「うん」
「逃げてきた、って言えば、それまでなんだけど」
「……それでも、来てくれて、嬉しいよ」
言ってから、龍太郎は後悔しかけた。けれど、真子は微笑んだままだった。
グラスのビールが空になるころ、店内には他の客が一組、酔ったサラリーマンのグループが入ってきた。
喧騒が一気に増す。その音の中に、ふたりの沈黙は溶けていった。
「帰ろうか」
真子が言った。ホテルへ帰る、という意味かもしれなかったし、この夜を終えよう、という意味かもしれなかった。龍太郎は「うん」とだけ返し、席を立った。
店を出ると、夜風が思ったよりも冷たかった。
六月の東京には珍しく、上着が欲しくなるような空気だった。龍太郎は、無意識に自分の上着を脱ぎかけて、やめた。
代わりに、何も言わずに少しだけ歩幅を狭めた。ホテルの前に着くと、真子が立ち止まり、振り返った。
「……ありがとね」
その一言に、いろんな感情が詰まっているような気がして、龍太郎は返事を探すことをやめた。別れ際、真子が小さく手を振った。改札で見せた仕草と、まったく同じだった。それに応えるように、龍太郎も手を上げた。その夜、龍太郎は帰りの電車の中で、真子の手の動きを何度も思い出した。ゆっくりと振られた、その手の向こうに、遠距離という言葉の重さと、それでも会いに来てくれた事実があった。たったそれだけの夜。けれど、それは二人にとって、確かに「再会の夜」だった。