空港
明日は、羽田空港へ旅立っている。そう思うと、荷造りは案外早く終わった。着古したワイシャツと、くたびれた革靴と、形の合わないスーツケースに詰め込んだのは、希望か、それとも逃避か。熊本空港のロビーには、平日午後の気だるさと、見送りの気配だけが漂っていた。スマホの電源は、切ったままだ。真子のアイコンは、もうこちらには表示されない。あの日、最後の返信をもらった直後、自分の指で切った。まるで、過去との通信を遮断するように。
(逃げるんじゃない、変わるんだ)
そう言い聞かせた。けれど本当は、「いまの自分」から目を背けるための移動だった。加工課の油の匂いも、品質会議の無表情なメンツも、これで終わりにできる。そう思えば、ほんの少しだけ、呼吸が軽くなった。自動ドアの向こうで、プロペラ機が轟音を立てて滑走路を離れていく。誰も、自分を見送る人はいない。だが、それが今の龍太郎には、ちょうどよかった。出発ゲートへと向かう通路を歩きながら、ふと、ポケットに残されたままのバナナミルクのレシートに気づいた。日付は、真子と最後に話した日だった。破ろうかと思って、指をかけた。だが、そのまま、財布に戻した。
「また、どこかで」
小さな声で、誰にも聞こえないように、そう呟いた。
東京の空は、まだ知らない。そして、彼女の心の天気も。でも、この旅立ちは、確かに何かを終わらせ、何かを始めるための一歩だった。飛行機の窓から見下ろす雲の海の向こうに、龍太郎の新しい季節が、音もなく待っていた。
熊本工場では、午後の打刻音が響くなか、工場長が一人の若い女性を呼び出していた。
「荻野くん。佐川くんと付き合ってるのか」
突然の問いに、真子の肩が一瞬だけ揺れた。
それでもすぐに背筋を伸ばし、まっすぐに工場長の目を見て答えた。
「……いえ、正式に付き合っているわけではありません。ただ……気になる存在でした」
それは、嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。あのバナナミルクの午後、あのLINEのやりとり。心が揺れたこと、声を聞いて安心したこと。
すべてが「気になる」という言葉に収まりきるはずがなかった。工場長は、しばらく黙ってから、口を開いた。
「これから……彼の行動に、期待するんだな。精神病を患ったことがあるらしいが、今は立っている。いや、立とうとしている。問題はそこだ」
真子は驚いて、工場長の顔を見つめた。その目には、叱責でも諦めでもなく、不器用な信頼が宿っていた。
「彼が苦しんでるのは、なんとなくわかってました。でも……どう声をかけたらいいのか、わからなくて」
真子の声は、かすれていた。
工場長は頷いた。
「誰かを支えるってのは、時に沈黙を共有することでもある。……俺たちは、彼に仕事を任せてる。過去じゃなくて、いまの彼に。それが、社会ってやつだよ」
真子は、下唇を噛んで、小さく頷いた。
「彼、明日、東京へ行きます」
「そうか。なら、お前も東京へ出張行け。……口実なら、俺がつけてやる。迷ったら動け。悩んだら、会いに行け。そうしなきゃ後悔する」
その言葉が、胸の奥深くに沈んでいった。真子はゆっくりと工場長室を出た。誰もいない廊下に出たとき、ふと立ち止まり、スマホを取り出した。LINEのトーク履歴は、途中から白紙になっていた。ブロックされたのだと、すぐにわかった。それでも——画面の下の「トーク作成」ボタンに、親指がそっと触れた。
(まだ間に合うかな)
真子は小さく笑って、自分に問いかけた。そのとき工場の天井に、低く飛行機の音が響いた。それはまるで、何かが旅立とうとしている合図のように、真子の耳に届いた。
熊本工場の空は、少しずつ冬の色に変わりつつあった。朝の風が肌を刺し、通勤の靴音が冷えたコンクリートに吸い込まれていく。荻野真子は、受け付けの制服を脱いだ。いつも笑顔で迎えていた来客の名刺や、ルーティンの電話応対から離れ、今ではパソコンの前に座って、数字とにらめっこする日々を送っていた。
生産管理課へ異動――それは、実力を評価された結果でもあったし、本人の希望でもあった。表向きはそうだった。でも、本当は違っていた。理由は、あの出来事のあと、受付カウンターに立ち続けるのが苦しくなったからだ。龍太郎とすれ違う廊下、エレベーターの沈黙、社内メールの未読のままの通知。あの秋の日を境に、なにかが取り返しのつかないかたちで、変わってしまっていた。
「荻野さん、生産ラインのABC工程、来月の予定数出ましたよ」
隣のデスクから声がかかる。真子は「ありがとうございます」と微笑みながら、手元のエクセルシートに目を戻す。日々は静かに過ぎていった。だが、ある朝の朝礼で、課長がふとこう言った。
「荻野さん、来月、本社に一週間、出張してもらえますか。東京の生産会議に立ち会ってほしい」
「……本社、ですか?」
驚きと不安が交じった声が、喉元から漏れた。
でもそれ以上、質問はしなかった。一ヶ月後、本社出張。断る理由もなかったし、逃げる理由もなかった。
(東京には、彼がいる)
それだけの事実が、頭のどこかで淡く点滅していた。
でもその灯りは、過去の傷を掘り返すには、あまりにもかすかだった。その晩、真子は実家の台所で母に言った。
「来月、東京に行くの。仕事だけど、久しぶりでちょっと緊張してる」
母は、にこりと笑って味噌汁をかき回しながら言った。
「いいじゃない。東京。……昔、真子が『大人になったら東京で恋するんだ』って言ってたの、覚えてるよ」
真子はふっと笑って、味噌汁の湯気に目を細めた。
(あの頃の私に、いまの私はどう映るかな)
彼を忘れたいわけじゃなかった。でも、もう一度始めるには、勇気も理由も足りなかった。それでも、たった一つだけ、自分に言い聞かせることができるとしたら——
「会わなければ、何も始まらない」——それだけだった。
明日は、羽田空港へ旅立っている。そう思うと、荷造りは案外早く終わった。着古したワイシャツと、くたびれた革靴と、形の合わないスーツケースに詰め込んだのは、希望か、それとも逃避か。熊本空港のロビーには、平日午後の気だるさと、見送りの気配だけが漂っていた。スマホの電源は、切ったままだ。真子のアイコンは、もうこちらには表示されない。あの日、最後の返信をもらった直後、自分の指で切った。まるで、過去との通信を遮断するように。
(逃げるんじゃない、変わるんだ)
そう言い聞かせた。けれど本当は、「いまの自分」から目を背けるための移動だった。加工課の油の匂いも、品質会議の無表情なメンツも、これで終わりにできる。そう思えば、ほんの少しだけ、呼吸が軽くなった。自動ドアの向こうで、プロペラ機が轟音を立てて滑走路を離れていく。誰も、自分を見送る人はいない。だが、それが今の龍太郎には、ちょうどよかった。出発ゲートへと向かう通路を歩きながら、ふと、ポケットに残されたままのバナナミルクのレシートに気づいた。日付は、真子と最後に話した日だった。破ろうかと思って、指をかけた。だが、そのまま、財布に戻した。
「また、どこかで」
小さな声で、誰にも聞こえないように、そう呟いた。
東京の空は、まだ知らない。そして、彼女の心の天気も。でも、この旅立ちは、確かに何かを終わらせ、何かを始めるための一歩だった。飛行機の窓から見下ろす雲の海の向こうに、龍太郎の新しい季節が、音もなく待っていた。
熊本工場では、午後の打刻音が響くなか、工場長が一人の若い女性を呼び出していた。
「荻野くん。佐川くんと付き合ってるのか」
突然の問いに、真子の肩が一瞬だけ揺れた。
それでもすぐに背筋を伸ばし、まっすぐに工場長の目を見て答えた。
「……いえ、正式に付き合っているわけではありません。ただ……気になる存在でした」
それは、嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。あのバナナミルクの午後、あのLINEのやりとり。心が揺れたこと、声を聞いて安心したこと。
すべてが「気になる」という言葉に収まりきるはずがなかった。工場長は、しばらく黙ってから、口を開いた。
「これから……彼の行動に、期待するんだな。精神病を患ったことがあるらしいが、今は立っている。いや、立とうとしている。問題はそこだ」
真子は驚いて、工場長の顔を見つめた。その目には、叱責でも諦めでもなく、不器用な信頼が宿っていた。
「彼が苦しんでるのは、なんとなくわかってました。でも……どう声をかけたらいいのか、わからなくて」
真子の声は、かすれていた。
工場長は頷いた。
「誰かを支えるってのは、時に沈黙を共有することでもある。……俺たちは、彼に仕事を任せてる。過去じゃなくて、いまの彼に。それが、社会ってやつだよ」
真子は、下唇を噛んで、小さく頷いた。
「彼、明日、東京へ行きます」
「そうか。なら、お前も東京へ出張行け。……口実なら、俺がつけてやる。迷ったら動け。悩んだら、会いに行け。そうしなきゃ後悔する」
その言葉が、胸の奥深くに沈んでいった。真子はゆっくりと工場長室を出た。誰もいない廊下に出たとき、ふと立ち止まり、スマホを取り出した。LINEのトーク履歴は、途中から白紙になっていた。ブロックされたのだと、すぐにわかった。それでも——画面の下の「トーク作成」ボタンに、親指がそっと触れた。
(まだ間に合うかな)
真子は小さく笑って、自分に問いかけた。そのとき工場の天井に、低く飛行機の音が響いた。それはまるで、何かが旅立とうとしている合図のように、真子の耳に届いた。
熊本工場の空は、少しずつ冬の色に変わりつつあった。朝の風が肌を刺し、通勤の靴音が冷えたコンクリートに吸い込まれていく。荻野真子は、受け付けの制服を脱いだ。いつも笑顔で迎えていた来客の名刺や、ルーティンの電話応対から離れ、今ではパソコンの前に座って、数字とにらめっこする日々を送っていた。
生産管理課へ異動――それは、実力を評価された結果でもあったし、本人の希望でもあった。表向きはそうだった。でも、本当は違っていた。理由は、あの出来事のあと、受付カウンターに立ち続けるのが苦しくなったからだ。龍太郎とすれ違う廊下、エレベーターの沈黙、社内メールの未読のままの通知。あの秋の日を境に、なにかが取り返しのつかないかたちで、変わってしまっていた。
「荻野さん、生産ラインのABC工程、来月の予定数出ましたよ」
隣のデスクから声がかかる。真子は「ありがとうございます」と微笑みながら、手元のエクセルシートに目を戻す。日々は静かに過ぎていった。だが、ある朝の朝礼で、課長がふとこう言った。
「荻野さん、来月、本社に一週間、出張してもらえますか。東京の生産会議に立ち会ってほしい」
「……本社、ですか?」
驚きと不安が交じった声が、喉元から漏れた。
でもそれ以上、質問はしなかった。一ヶ月後、本社出張。断る理由もなかったし、逃げる理由もなかった。
(東京には、彼がいる)
それだけの事実が、頭のどこかで淡く点滅していた。
でもその灯りは、過去の傷を掘り返すには、あまりにもかすかだった。その晩、真子は実家の台所で母に言った。
「来月、東京に行くの。仕事だけど、久しぶりでちょっと緊張してる」
母は、にこりと笑って味噌汁をかき回しながら言った。
「いいじゃない。東京。……昔、真子が『大人になったら東京で恋するんだ』って言ってたの、覚えてるよ」
真子はふっと笑って、味噌汁の湯気に目を細めた。
(あの頃の私に、いまの私はどう映るかな)
彼を忘れたいわけじゃなかった。でも、もう一度始めるには、勇気も理由も足りなかった。それでも、たった一つだけ、自分に言い聞かせることができるとしたら——
「会わなければ、何も始まらない」——それだけだった。



