試練
永井課長の声は、昼下がりの工場の湿った空気のなかで、やけに澄んでいた。
「佐川君。加工課に異動だ。もっと勉強してこい」
頭を下げながら、龍太郎の心の奥で何かが崩れる音がした。社内の階段を一歩ずつ登ってきたはずだった。報われると信じてきた。報われることに意味があると信じて、眠れぬ夜を数え、失敗の責任を背負い、先輩の尻拭いも黙って引き受けてきた。だがそれらは、ただの滑稽な努力に過ぎなかったのだろうか。その夜、缶ビール一本で酔ったふりをして、スマホの画面を見つめた。指先が勝手に動く。あの言葉しか浮かばなかった。
「結婚しよう」
送信ボタンを押した瞬間、取り返しのつかない川を渡ってしまったような気がした。待つこと数分。ピロン、と乾いた音が鳴った。
「もうメールしないでください」
その一行は、真子が選んだ冷静さと、龍太郎が壊した距離感と、ふたりの過去の温度差がすべて圧縮された、短くも強烈な終止符だった。本当は、直接言ってほしかったんだよ。画面を見つめながら呟いたその声も、誰にも届かない。いや、きっと真子にも、届かないようにと彼は無意識に願っていたのかもしれない。
翌朝、社内の廊下ですれ違った。目が合いそうになった瞬間、龍太郎はうつむいて、コピー機の影に身を隠した。
「声をかけられない」のではない。
「声をかける資格がない」と思ってしまったのだ。
そしてその思い込みは、いつしか現実になり、龍太郎と真子のあいだに、長く冷たい沈黙の季節をもたらすことになる。
品質の仕事は、奥が深い。
計測器の数値、トレーサビリティ、帳票類の裏に潜む人為的な曖昧さ——それらすべてを見抜くには、根気と直観、そして何より「信じる力」が必要だった。だが、龍太郎にはもう、そうしたものを受けとめる余裕が残っていなかった。加工課の騒がしい機械音が耳の奥で暴れていた。休憩室に逃げ込むと、座ったまま、拳を握りしめた。午後。意を決して、工場長室のドアをノックした。
「……ちょっと、お話があります」
壁の時計が一秒ごとに音を刻むなか、龍太郎は震える声で打ち明けた。
「実は、自分……過去に精神の病気を……やってまして」
工場長は一瞬だけ目を細めた。資料の束を置いて、ゆっくりと顔を上げた。
「今は、どうもないんだろう?」
龍太郎は、かすかにうなずき、「はい」とだけ答えた。
それ以上は何も言われなかった。だが、その簡潔すぎるやりとりが、逆に心に残った。今という時間にしか価値を置かない職場の合理性。過去はどこまでも個人のものであり、組織には必要のない情報だった。
そして、その会話を、真子はドア越しに聞いていた。
通りがかりのふりをして、立ち止まっていた。龍太郎の声のかすれ方に、彼女は何か重大なことが語られていると察した。彼女の手は、ノブに触れかけていた。けれど、その先の動作ができなかった。
(なんて、声をかければいいの?)
過去の彼に踏み込む資格が、自分にあるのかどうか。それがわからなかった。やがて工場長室のドアが開き、龍太郎がうつむいたまま出てきた。真子は咄嗟に背を向けた。気づかれぬように、足音を立てずにその場を離れた。彼の苦しみの存在を知ってしまったことで、彼女の心にもまた、ひとつの距離が生まれていた。それは、かつてのように笑い合えるには、あまりに微妙で、あまりに深い溝だった。
一週間が過ぎた。
いつの間にか秋が深まり、朝の工場は少し肌寒くなっていた。加工作業の油の匂いがシャツに染みつき、龍太郎の心には、重たい沈黙だけが積もっていた。この会社に入社して、二年目の秋。それは、予期せぬ転機の始まりだった。真子とは、あれから一度も顔を合わせていない。あの日、あの返信。
「もうメールしないでください」
短い言葉だったが、真子なりの苦しさがにじんでいた。
わかっていた。彼女は、ただ「直接言ってほしかった」だけなのだ。工場の隅に咲いた、あの季節外れのコスモスのように、彼女の心も、ひっそりと、でも確かに、こちらに向いていた時間があったはずなのに、LINEの画面を何度か開きかけては、指を止めた。
思い切って、ブロックした。未練にすがらないためだった。そして何より、自分自身にけじめをつけるためだった。その頃、熊本工場内で、本社への異動希望者の募集が掲示板に貼り出された。
(東京か……)
龍太郎は、迷うことなく志願した。
表向きの理由は「加工工程の知識を深めたい」
だが本当は、ここに残っていても、彼女の背中を見ることすらできない自分に、嫌気がさしていたのだ。静かにページを閉じるようにして、ひとつの季節が、幕を下ろしていく。真子との距離は、埋まらないまま。
いや、それを埋めようとする勇気すら、もはや持てなくなっていた。



