改訂版 タイムリミットは三年のプロポーズ

同僚

珍しく、真子の方から夜に会おうと誘ってきた。映画を見たいらしい。けれど、本当に見たいのは、そのあとの「話」の方だということを、龍太郎はなんとなく察していた。映画館を出た帰り道、カフェに入るかどうかも決めないまま、ふたりは並んで歩いた。夕方に降った小雨の名残が、歩道の隅にまだ残っている。街灯がぼんやりと濡れた地面を照らしていた。
「佐川さんの会社……アルバイト、募集してたよ」
ぽつりと、真子が言った。
龍太郎は、歩を止めかけた。
「私、受けてみようと思う。もちろん……クローズで」
「クローズ」という言葉に、彼女の表情が一瞬だけ曇った。龍太郎の脳裏に、職場の空気が浮かんだ。白衣の匂い。昼休みに交わされる小さな噂。真子が、そこに来る?何かが、静かに崩れはじめるような感覚がした。それは恐れなのか、それとも、ほんのわずかな期待だったのか。自分でもよくわからなかった。真子は、龍太郎のそばで確かめたかった。それが本当に恋だったのか。信頼だったのか。それとも、ただの懐かしさに過ぎなかったのか。けれど、もう一つ。彼女の胸の奥には、はっきりとした動機があった。彼は、結婚相手としてふさわしい人だろうか。ただ優しいだけではなく、困難な時にも支え合えるか。言葉より、沈黙のなかにどれだけ思いやりがあるか。一緒に未来を歩いていけるだけの、静かな強さを持っているか。
それを、机上の空論やスマホ越しのやりとりではなく、日々の空気の中で、目の前の彼の仕草や表情の揺れの中で、確かめたかったのだ。
「よろしくお願いします」
真子が、控えめに、それでもはっきりと挨拶をした。
制服姿の彼女が、まさか本当に同じ会社にやってくるとは、龍太郎は、心のどこかで「夢ではないか」とさえ思った。だが、そんな浮足立った気持ちはすぐに現実に引き戻される。この日から、彼は永井課長の下で新しい業務に就くことになっていた。
「お前、電話の受け答えもわからないのか!」
フロアに怒号が響いた。永井課長の声は、天井に跳ね返りながら静寂を打ち破った。そのやり取りを、少し離れた受付のカウンター越しに真子が聞いていた。
手を止め、ふと顔を上げて、龍太郎の背中に目を向けた。想像していた「出世した元・文学青年」とは、どうやら少し違っていた。大丈夫かな……ふと、そんな不安が胸をよぎる。仕事が終わるころ、スマホに通知が届いた。真子からだった。今日は怒られてたね。会社で皆んな噂の種だったよ。言葉は軽やかだったが、文面の裏に彼女なりの心配が透けて見えた。それがありがたくて、でも少しだけ悔しくて、龍太郎は既読のまま返信をためらった。

いつの間にか、社内ではふたりは「名物コンビ」と呼ばれるようになっていた。受付で微笑む真子と、品質事務所で毎日怒鳴られている佐川——対照的な存在であるはずのふたりが、なぜか一緒にいる姿が妙に馴染んでいるらしい。
「おい佐川!電話ひとつまともに取れねえのか!」
永井課長の罵声が、今日も龍太郎の顔面を直撃した。
その一語一語が、体ではなく心に刺さる。反論はできなかった。自信も、言葉も、もうほとんど残っていない。ある日、課長が不意に言った。
「今日は品質事務所、誰もいねぇからな。佐川、電話の応対も頼むぞ。不具合の初期対応もだ。わかったな?」
言い渡された言葉は、命令というより、突き放すような通告だった。その場を離れる永井課長の背中を見つめながら、龍太郎はかすかに唇を噛んだ。背負わされたのは、経験の浅い自分にはあまりにも重すぎる業務だった。ふと、受付のほうを見ると、真子が視線に気づいたのか、小さく手を振ってきた。いつもと同じ、柔らかい笑顔。だけどそれが今は、妙に遠くに思えた。彼女はなぜ、あの時「アルバイトしてみたい」などと言ったのだろう。彼女のほうがずっと優秀で、器用で、愛されている。その差が、日ごとに浮き彫りになっていく気がしていた。