出世
もうすぐ、真子の二十五回目の誕生日だった。六月の終わりの風は、少し湿気を帯びていたが、どこか静けさを孕んでいた。LINEのトーク履歴には、ささいな絵文字や既読マーク、送信しようとしてやめた未練がいくつも残っている。真子は今、B型作業所に通っている。週に四日、午前中だけの軽作業。かつて、文学部で哲学を学んでいたという彼女には、いささか釣り合わないようにも思えた。だが龍太郎は、それについて口に出すことをしなかった。いや、できなかった。
彼自身もまた、「自分の居場所」をめぐって何年も迷ってきたのだ。それでも、言葉にしなかった胸の内は、どこかで伝わってしまうものなのかもしれない。
次に会った日。近所の図書館のカフェで、真子はカフェオレのカップを両手で包みながら、ぽつりと語り出した。
「……たまに思うの。
大学を辞めたこと、ほんとはすごく怖かった。
なんかね、全部が止まってるような気がして……」
龍太郎は何も言わなかった。ただ、彼女の声の温度だけを感じていた。
「でも、今は、ちょっとずつでも、自分を信じたいなって思ってる」
「この作業所も、最初はバカにしてた。自分をね。
でもさ、今の私は、ここにいるって、それだけで意味あるかなって……」
言い終えたあと、真子はふっと笑った。
その笑みが、どこか痛々しくて、そして、美しかった。
「誕生日、何か欲しいものある?」と、龍太郎が聞いたのは、その少し後だった。
「うーん、なんだろう。じゃあ、絵本が欲しい」
「え? 絵本?」
「うん。大人になって読む絵本、ってあるでしょ。ちょっと泣けるやつ」
彼女の目がすこし潤んで見えた。龍太郎はうなずいた。頭の中では、すでに贈る本のタイトルをいくつも思い浮かべていた。彼女の誕生日が、彼女の存在をそっと肯定する、そんな日にできたら。ただそれだけで、じゅうぶんだと思った。
最近、工場内の草むしりがやたらと増えた。最初は月に一度だった作業が、週に一度、ついには毎朝のようになっている。
「暇つぶしですよ」などと冗談めかして言う者もいたが、龍太郎はその言葉の裏にある空白を、じわじわと感じていた。ラインは止まっていた。注文がないのだ、と年配の係長がぽつりとつぶやいたのを聞いたのは、数日前のことだった。午前中はまだよかった。陽は高く、土の匂いも、草の感触も、そこに在るものとして体に入ってきた。だが、午後になると湿気がまとわりつき、額の汗がやけにしみた。そして今日の昼からは、東京の本社から「偉い人」が来るという。
「社長の息子らしいよ」
「リストラの下見じゃないの?」
「いやいや、むしろ救済策でしょ」
噂だけが風に乗って漂っていた。誰もが確かなことを知らないくせに、知っているふりをして口を開いた。
その空気が、妙に息苦しかった。若い社員のひとりが、こっそり龍太郎に耳打ちしてきた。
「実はさ、東京に行くかって言われてるんだ。社員寮ありで、給料もちょっと上がるって……でも、どう思う?」
龍太郎は答えなかった。自分の居場所を問い続けるようなその問いかけに、うまく言葉が出なかった。草むしりの手を止めて空を見上げると、梅雨入り前の、ぼんやりとした雲が浮かんでいた。この空の下に、東京も、彼女も、自分の未来も、等しく続いているのかと思うと、わずかな目眩を感じた。午後一時すぎ。
黒塗りの車が工場前に停まり、スーツ姿の男たちが降りてきた。それは、工場の命運を決める者たちの登場だったが、龍太郎の心の中では、それ以上に、ひとつの小さな問いが静かに膨らんでいた。自分は、どこへ行くのか。そして、真子はどう思うだろうか。その問いだけが、草の匂いと一緒に、胸の奥にこびりついていた。出向の辞令が下ったのは、雨の匂いが朝の空気に混じり始めた頃だった。下請け会社への異動。小さな工場での検品業務。龍太郎はうなずくだけで、何も問わなかった。現実という名の水は、知らぬ間に靴底を濡らし、足をひやりとさせるだけだった。
「佐川くん」
永井課長に呼ばれたのは、そんな折のことだった。
東京本社から転勤してきたばかりのその人は、まだこの工場の空気に馴染みきっていないスーツを着ていた。まるで別の世界の言葉を話すように、彼は言った。
「品質の仕事、やってみないか」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。品質課。あの、白衣の人たち。不良を見つけ、数値を測り、責任を問われ、時に、工場内で最も嫌われる存在。でも、そうではなかった。彼の言葉には、未来を委ねるような静けさがあった。
なぜ、俺に?
そう思いながらも、龍太郎はただ、うなずいた。
その夜。
寮の部屋に戻ってから、龍太郎はスマホを手に取った。真子にLINEを送る。
「今日、課長に言われた。品質の仕事やってみないかって」
しばらくして、既読がついた。それから数分。ぽつりと返信が届いた。
「それって……出世じゃない?」
その言葉に、龍太郎は思わず笑った。
画面の向こうで、真子が目を丸くしているのが、なぜか目に浮かんだ。でも、その瞬間、心の奥で何かがざらりとした。
「出世」——それは、かつての自分とは無縁だった言葉。病院の白い天井を見つめていたあの頃には、決して届かない場所の響きだった。それでも、今。自分は、そこへと手を伸ばしている。理由は、ひとつしかなかった。真子の前で、胸を張っていたい。ただ、それだけのことだった。スマホを伏せると、外では雨が降り出していた。ゆっくりと、夏が終わろうとしていた。
もうすぐ、真子の二十五回目の誕生日だった。六月の終わりの風は、少し湿気を帯びていたが、どこか静けさを孕んでいた。LINEのトーク履歴には、ささいな絵文字や既読マーク、送信しようとしてやめた未練がいくつも残っている。真子は今、B型作業所に通っている。週に四日、午前中だけの軽作業。かつて、文学部で哲学を学んでいたという彼女には、いささか釣り合わないようにも思えた。だが龍太郎は、それについて口に出すことをしなかった。いや、できなかった。
彼自身もまた、「自分の居場所」をめぐって何年も迷ってきたのだ。それでも、言葉にしなかった胸の内は、どこかで伝わってしまうものなのかもしれない。
次に会った日。近所の図書館のカフェで、真子はカフェオレのカップを両手で包みながら、ぽつりと語り出した。
「……たまに思うの。
大学を辞めたこと、ほんとはすごく怖かった。
なんかね、全部が止まってるような気がして……」
龍太郎は何も言わなかった。ただ、彼女の声の温度だけを感じていた。
「でも、今は、ちょっとずつでも、自分を信じたいなって思ってる」
「この作業所も、最初はバカにしてた。自分をね。
でもさ、今の私は、ここにいるって、それだけで意味あるかなって……」
言い終えたあと、真子はふっと笑った。
その笑みが、どこか痛々しくて、そして、美しかった。
「誕生日、何か欲しいものある?」と、龍太郎が聞いたのは、その少し後だった。
「うーん、なんだろう。じゃあ、絵本が欲しい」
「え? 絵本?」
「うん。大人になって読む絵本、ってあるでしょ。ちょっと泣けるやつ」
彼女の目がすこし潤んで見えた。龍太郎はうなずいた。頭の中では、すでに贈る本のタイトルをいくつも思い浮かべていた。彼女の誕生日が、彼女の存在をそっと肯定する、そんな日にできたら。ただそれだけで、じゅうぶんだと思った。
最近、工場内の草むしりがやたらと増えた。最初は月に一度だった作業が、週に一度、ついには毎朝のようになっている。
「暇つぶしですよ」などと冗談めかして言う者もいたが、龍太郎はその言葉の裏にある空白を、じわじわと感じていた。ラインは止まっていた。注文がないのだ、と年配の係長がぽつりとつぶやいたのを聞いたのは、数日前のことだった。午前中はまだよかった。陽は高く、土の匂いも、草の感触も、そこに在るものとして体に入ってきた。だが、午後になると湿気がまとわりつき、額の汗がやけにしみた。そして今日の昼からは、東京の本社から「偉い人」が来るという。
「社長の息子らしいよ」
「リストラの下見じゃないの?」
「いやいや、むしろ救済策でしょ」
噂だけが風に乗って漂っていた。誰もが確かなことを知らないくせに、知っているふりをして口を開いた。
その空気が、妙に息苦しかった。若い社員のひとりが、こっそり龍太郎に耳打ちしてきた。
「実はさ、東京に行くかって言われてるんだ。社員寮ありで、給料もちょっと上がるって……でも、どう思う?」
龍太郎は答えなかった。自分の居場所を問い続けるようなその問いかけに、うまく言葉が出なかった。草むしりの手を止めて空を見上げると、梅雨入り前の、ぼんやりとした雲が浮かんでいた。この空の下に、東京も、彼女も、自分の未来も、等しく続いているのかと思うと、わずかな目眩を感じた。午後一時すぎ。
黒塗りの車が工場前に停まり、スーツ姿の男たちが降りてきた。それは、工場の命運を決める者たちの登場だったが、龍太郎の心の中では、それ以上に、ひとつの小さな問いが静かに膨らんでいた。自分は、どこへ行くのか。そして、真子はどう思うだろうか。その問いだけが、草の匂いと一緒に、胸の奥にこびりついていた。出向の辞令が下ったのは、雨の匂いが朝の空気に混じり始めた頃だった。下請け会社への異動。小さな工場での検品業務。龍太郎はうなずくだけで、何も問わなかった。現実という名の水は、知らぬ間に靴底を濡らし、足をひやりとさせるだけだった。
「佐川くん」
永井課長に呼ばれたのは、そんな折のことだった。
東京本社から転勤してきたばかりのその人は、まだこの工場の空気に馴染みきっていないスーツを着ていた。まるで別の世界の言葉を話すように、彼は言った。
「品質の仕事、やってみないか」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。品質課。あの、白衣の人たち。不良を見つけ、数値を測り、責任を問われ、時に、工場内で最も嫌われる存在。でも、そうではなかった。彼の言葉には、未来を委ねるような静けさがあった。
なぜ、俺に?
そう思いながらも、龍太郎はただ、うなずいた。
その夜。
寮の部屋に戻ってから、龍太郎はスマホを手に取った。真子にLINEを送る。
「今日、課長に言われた。品質の仕事やってみないかって」
しばらくして、既読がついた。それから数分。ぽつりと返信が届いた。
「それって……出世じゃない?」
その言葉に、龍太郎は思わず笑った。
画面の向こうで、真子が目を丸くしているのが、なぜか目に浮かんだ。でも、その瞬間、心の奥で何かがざらりとした。
「出世」——それは、かつての自分とは無縁だった言葉。病院の白い天井を見つめていたあの頃には、決して届かない場所の響きだった。それでも、今。自分は、そこへと手を伸ばしている。理由は、ひとつしかなかった。真子の前で、胸を張っていたい。ただ、それだけのことだった。スマホを伏せると、外では雨が降り出していた。ゆっくりと、夏が終わろうとしていた。



