出張
「全数検査、決まったぞ。行くのは五人。お前も行くからな」
リーダーの佐々木が、昼休みの終わり際にぼそりと告げた。龍太郎は一瞬、耳を疑った。
愛媛。
納入先のメーカーだ。
先週発覚したバリ取り不良。その部品が、数百個単位で納品されていたという。その全数を検品するため、現地に乗り込むのだ。会社としての信用問題。名指しで選ばれたのは、光栄なことなのか、それとも——。
「……はい」と返事をしたが、正直、気が重かった。
バリ不良の見分けはいまだ曖昧なまま。見せられたサンプルも、頭には入っていない。どうして自分が選ばれたのかも、よくわからない。人手が足りないのか、それとも……。
(まあ、どうにかなるだろう)
思考を打ち切るように心のなかで呟いた。朝は五時集合。工場の駐車場に集まり、ワゴン車で向かうらしい。片道、十時間弱。ほとんど旅だ。
その夜。
龍太郎は、スマホを手に取った。LINEの画面を開くと、真子の名前をタップする。入力画面に、何か書きかけては消し、書きかけてはまた消した。最終的に、シンプルな一文だけが残った。
「明日から出張で愛媛行くことになった。バリ不良の全検らしい」
送信。
画面は静かだった。
いつもの既読スルーか、あるいは、なにか言葉が返ってくるのか。しばらくして、画面の右上に小さな「既読」の文字がついた。それから、さらに数秒後。意外なことに、返信が来た。
「えっ、愛媛? 遠っ😲 大変じゃん。気をつけてね」
それだけの短いメッセージだった。絵文字付き。それが妙にうれしかった。言葉以上に、彼女の顔が浮かんだ気がした。ベッドに横になりながら、龍太郎はもう一度、その文面を眺めた。
「気をつけてね」
心に灯る、微かな明かり。それだけで、不安がほんの少し、和らいだ気がした。スマホの画面を胸に乗せたまま、龍太郎は目を閉じた。旅立ちの朝は早い。夢のなかで、愛媛の風景が見られればいいのに、と思いながら。出張初日、大分からフェリーに乗り込んだ。
窓際の席に座り、波のきらめきをぼんやりと眺めながら、龍太郎は自分が今、確かに”仕事で旅をしている”という現実を少し不思議な気持ちで噛みしめていた。フェリーに揺られながら、リーダー佐々木の隣で静かに弁当を広げる同僚たちの姿があった。会話は少なく、昼寝をしたりスマホをいじったり。工場では見られない一面。皆が少しだけ、“会社員”から”旅人”へと姿を変えているように思えた。生まれて初めての出張。だが、特別な感動というよりは、風景の変化が鈍い身体にゆっくりと入り込んでくるだけだった。港に着いたのは夕方だった。瀬戸内の町に宿をとり、荷をほどくと、リーダーがぽつりと言った。
「晩メシ、お好み焼き行くぞ」
誰も異を唱える者はいなかった。数分後には、五人が肩を並べて暖簾をくぐっていた。鉄板の前に並んで座ると、店主が手際よく生地を流し込み、キャベツ、肉、天かすといった具材が焼かれていく。ソースの香りが立ちのぼる頃、リーダーが不意に言った。
「飲むやつ、手ぇあげろ。ビールでええな」
冗談かと思ったが、誰も笑わなかった。やがて瓶ビールが五本、店主の手で鉄板の隅に並べられた。ラベルの結露が、旅の実感を冷たく際立たせていた。龍太郎は一瞬、遠慮しかけたが、隣の先輩が黙ってグラスを渡してきた。受け取って、一口。泡の苦味が喉を過ぎる。
(ああ、これが……会社の経費ってやつか)
そんなことを思いながら、鉄板の上で踊るソースとマヨネーズを見つめた。誰が払うのか、考えずに口に運べる食事。リーダーの奢りかと思っていたが、どうやらこれは「接待費」というものに分類されるらしい。誰も大きな声では話さない。けれど、静かに笑っていた。不良だの納品だの、バリだの、そういった言葉が、今夜だけは鉄板の外に置かれている気がした。
龍太郎は、少しだけ心を緩めた。フェリーで越えてきた海のことを思い出しながら。明日からの検品地獄が、今はまだ、現実味を帯びていなかった。
翌朝、検品作業は静かに始まった。蛍光灯の白い光が広がる検査場。無機質な空間に、カチリカチリと音が響く。龍太郎は、金属片に目をこらし、手で触れ、光にかざしながら次々と確認を続けた。指の腹に、バリの残滓がわずかに感じられる。最初の三十分は緊張で指先が震えたが、やがてその作業に慣れていった。意外だった。思っていたより、全検は楽だった。いや、正確に言うなら、自分にもできることがあると感じた、その安心感のせいだった。リーダーは黙々と作業に没頭していた。誰も怒鳴らず、誰も責めなかった。
その代わり、言葉の少ない緊張感が、空気にうっすらと溶け込んでいた。不良品の中に、自分が手がけた部品があることに気づいたのは、昼休み前だった。金属の縁に残された、あの独特のザラつき。自分の指が、過去に触れた感触とぴたりと一致する。ああ、これは、俺のやつだ。だが、龍太郎は口にしなかった。
「俺のです」と言ったところで、過ぎたことが戻るわけでもない。責任を認めたところで、逆に場の空気を重たくするだけだ。この空気の中で生き延びるには、黙ってやるべきことをやるしかない。
(これは、俺のせいだ。だけど……)
だけど、ようやくわかった。どこに気をつければよかったのか。どの工程が危なかったのか。今、自分の指先は、そのミスを二度と繰り返さないように動いている。それが、ひとつの答えだった。午後、リーダーが「昼メシ、早めに行くか」とぽつりと言った。誰も反論せず、皆で黙って立ち上がった。いつもの龍太郎なら、緊張してひとりだけ動けなかったかもしれない。
けれど今日は、何も言わずに皆の背中を追っていた。
沈黙のまま、うどん屋に入る。湯気の向こうで、リーダーが何気なく言った。
「意外と、わかってきたやろ」
龍太郎は、うなずいた。それが誰に向けられた言葉か、確かめる必要はなかった。その日、LINEで真子に不具合の話をすると返信が来た。その日の夜、ホテルのベッドに沈みながら、龍太郎はスマホの画面を見つめていた。枕元には缶ビールの空き缶がひとつ。少しぬるくなった夜風がカーテンの隙間から入ってくる。
「今日さ、不良品の件、たぶん俺がやったやつだった」
送ってから、ほんの少し後悔した。彼女が返事に困るかもしれない。あるいは、軽く笑われるかもしれない。けれど、その数分後、ふいに画面が灯った。
「気づけただけで、すごいよ」
その一文に、龍太郎は小さく息を吐いた。
「ちゃんと責任感あるんだね」
「リーダーさんには言ったの?」
言ってない、と返すと、既読がつくのにしばらくかかった。
「言わなくていい時もあるよね」
「でも、次はもう出さないって決めてるでしょ?」
「うん」と送ると、すぐにスタンプが返ってきた。小さな猫が「がんばったね」とつぶやいている。画面の光がじんわりと指先に残る。その言葉にどれだけの慰めがあったかを、彼はうまく言葉にできなかった。けれど、たしかに今、孤独ではなかった。彼女の言葉のひとつひとつが、自分の不安や罪悪感を少しずつ、別のものに変えていくような気がした。小さな、でも確かな希望に。
「全数検査、決まったぞ。行くのは五人。お前も行くからな」
リーダーの佐々木が、昼休みの終わり際にぼそりと告げた。龍太郎は一瞬、耳を疑った。
愛媛。
納入先のメーカーだ。
先週発覚したバリ取り不良。その部品が、数百個単位で納品されていたという。その全数を検品するため、現地に乗り込むのだ。会社としての信用問題。名指しで選ばれたのは、光栄なことなのか、それとも——。
「……はい」と返事をしたが、正直、気が重かった。
バリ不良の見分けはいまだ曖昧なまま。見せられたサンプルも、頭には入っていない。どうして自分が選ばれたのかも、よくわからない。人手が足りないのか、それとも……。
(まあ、どうにかなるだろう)
思考を打ち切るように心のなかで呟いた。朝は五時集合。工場の駐車場に集まり、ワゴン車で向かうらしい。片道、十時間弱。ほとんど旅だ。
その夜。
龍太郎は、スマホを手に取った。LINEの画面を開くと、真子の名前をタップする。入力画面に、何か書きかけては消し、書きかけてはまた消した。最終的に、シンプルな一文だけが残った。
「明日から出張で愛媛行くことになった。バリ不良の全検らしい」
送信。
画面は静かだった。
いつもの既読スルーか、あるいは、なにか言葉が返ってくるのか。しばらくして、画面の右上に小さな「既読」の文字がついた。それから、さらに数秒後。意外なことに、返信が来た。
「えっ、愛媛? 遠っ😲 大変じゃん。気をつけてね」
それだけの短いメッセージだった。絵文字付き。それが妙にうれしかった。言葉以上に、彼女の顔が浮かんだ気がした。ベッドに横になりながら、龍太郎はもう一度、その文面を眺めた。
「気をつけてね」
心に灯る、微かな明かり。それだけで、不安がほんの少し、和らいだ気がした。スマホの画面を胸に乗せたまま、龍太郎は目を閉じた。旅立ちの朝は早い。夢のなかで、愛媛の風景が見られればいいのに、と思いながら。出張初日、大分からフェリーに乗り込んだ。
窓際の席に座り、波のきらめきをぼんやりと眺めながら、龍太郎は自分が今、確かに”仕事で旅をしている”という現実を少し不思議な気持ちで噛みしめていた。フェリーに揺られながら、リーダー佐々木の隣で静かに弁当を広げる同僚たちの姿があった。会話は少なく、昼寝をしたりスマホをいじったり。工場では見られない一面。皆が少しだけ、“会社員”から”旅人”へと姿を変えているように思えた。生まれて初めての出張。だが、特別な感動というよりは、風景の変化が鈍い身体にゆっくりと入り込んでくるだけだった。港に着いたのは夕方だった。瀬戸内の町に宿をとり、荷をほどくと、リーダーがぽつりと言った。
「晩メシ、お好み焼き行くぞ」
誰も異を唱える者はいなかった。数分後には、五人が肩を並べて暖簾をくぐっていた。鉄板の前に並んで座ると、店主が手際よく生地を流し込み、キャベツ、肉、天かすといった具材が焼かれていく。ソースの香りが立ちのぼる頃、リーダーが不意に言った。
「飲むやつ、手ぇあげろ。ビールでええな」
冗談かと思ったが、誰も笑わなかった。やがて瓶ビールが五本、店主の手で鉄板の隅に並べられた。ラベルの結露が、旅の実感を冷たく際立たせていた。龍太郎は一瞬、遠慮しかけたが、隣の先輩が黙ってグラスを渡してきた。受け取って、一口。泡の苦味が喉を過ぎる。
(ああ、これが……会社の経費ってやつか)
そんなことを思いながら、鉄板の上で踊るソースとマヨネーズを見つめた。誰が払うのか、考えずに口に運べる食事。リーダーの奢りかと思っていたが、どうやらこれは「接待費」というものに分類されるらしい。誰も大きな声では話さない。けれど、静かに笑っていた。不良だの納品だの、バリだの、そういった言葉が、今夜だけは鉄板の外に置かれている気がした。
龍太郎は、少しだけ心を緩めた。フェリーで越えてきた海のことを思い出しながら。明日からの検品地獄が、今はまだ、現実味を帯びていなかった。
翌朝、検品作業は静かに始まった。蛍光灯の白い光が広がる検査場。無機質な空間に、カチリカチリと音が響く。龍太郎は、金属片に目をこらし、手で触れ、光にかざしながら次々と確認を続けた。指の腹に、バリの残滓がわずかに感じられる。最初の三十分は緊張で指先が震えたが、やがてその作業に慣れていった。意外だった。思っていたより、全検は楽だった。いや、正確に言うなら、自分にもできることがあると感じた、その安心感のせいだった。リーダーは黙々と作業に没頭していた。誰も怒鳴らず、誰も責めなかった。
その代わり、言葉の少ない緊張感が、空気にうっすらと溶け込んでいた。不良品の中に、自分が手がけた部品があることに気づいたのは、昼休み前だった。金属の縁に残された、あの独特のザラつき。自分の指が、過去に触れた感触とぴたりと一致する。ああ、これは、俺のやつだ。だが、龍太郎は口にしなかった。
「俺のです」と言ったところで、過ぎたことが戻るわけでもない。責任を認めたところで、逆に場の空気を重たくするだけだ。この空気の中で生き延びるには、黙ってやるべきことをやるしかない。
(これは、俺のせいだ。だけど……)
だけど、ようやくわかった。どこに気をつければよかったのか。どの工程が危なかったのか。今、自分の指先は、そのミスを二度と繰り返さないように動いている。それが、ひとつの答えだった。午後、リーダーが「昼メシ、早めに行くか」とぽつりと言った。誰も反論せず、皆で黙って立ち上がった。いつもの龍太郎なら、緊張してひとりだけ動けなかったかもしれない。
けれど今日は、何も言わずに皆の背中を追っていた。
沈黙のまま、うどん屋に入る。湯気の向こうで、リーダーが何気なく言った。
「意外と、わかってきたやろ」
龍太郎は、うなずいた。それが誰に向けられた言葉か、確かめる必要はなかった。その日、LINEで真子に不具合の話をすると返信が来た。その日の夜、ホテルのベッドに沈みながら、龍太郎はスマホの画面を見つめていた。枕元には缶ビールの空き缶がひとつ。少しぬるくなった夜風がカーテンの隙間から入ってくる。
「今日さ、不良品の件、たぶん俺がやったやつだった」
送ってから、ほんの少し後悔した。彼女が返事に困るかもしれない。あるいは、軽く笑われるかもしれない。けれど、その数分後、ふいに画面が灯った。
「気づけただけで、すごいよ」
その一文に、龍太郎は小さく息を吐いた。
「ちゃんと責任感あるんだね」
「リーダーさんには言ったの?」
言ってない、と返すと、既読がつくのにしばらくかかった。
「言わなくていい時もあるよね」
「でも、次はもう出さないって決めてるでしょ?」
「うん」と送ると、すぐにスタンプが返ってきた。小さな猫が「がんばったね」とつぶやいている。画面の光がじんわりと指先に残る。その言葉にどれだけの慰めがあったかを、彼はうまく言葉にできなかった。けれど、たしかに今、孤独ではなかった。彼女の言葉のひとつひとつが、自分の不安や罪悪感を少しずつ、別のものに変えていくような気がした。小さな、でも確かな希望に。



