改訂版 タイムリミットは三年のプロポーズ

バナナミルクの魔法〜再会編

季節の変わり目には、心も揺れやすくなる。自動販売機のガラス越しに見えたのは、黄色いキャップと柔らかなミルク色のボトル――バナナミルクだった。いつの間にかラインナップに加わっていたそれは、まるで誰かが「君のために用意した」と耳打ちしてくるようだった。500円玉を入れたら、お釣りが出てこなかった。チャリン、チャリンと硬貨が落ちる音が、なぜか一回しか鳴らなかった。おかしいな、としゃがみ込んで手を差し込むと、出てきたのは――またしても、500円玉だった。
「ラッキー……?」
僕は笑った。恋の神様が小さなイタズラを仕掛けてきたようで、少しだけ心が浮き立った。きっと、今日なにかが起こる。バナナミルクを一口飲みながら、そんな予感に胸が高鳴っていた。
作業所に戻る途中、視界に入ったのは見慣れた赤い小型車。僕の愛車の隣に停まっていた。心臓が跳ね上がる。全身に熱が走り、足元がふらついた。
真子だ。
そう確信するよりも先に、僕の身体は勝手に逃げ出していた。愛車のエンジンをかけ、震える指でハンドルを握り、アクセルを強く踏み込む。行き先は決めていない。ただ、彼女の気配から逃れたかった。
気がついたら、公園の駐車場にいた。だけど、そこはコロナの影響で閉鎖されていた。僕はスマホを取り出して、外来の受付に電話した。震える声で、彼女の友達を呼び出してもらおうとする。だけど、いない。混乱する思考。襲いかかる焦燥と不安。胸の鼓動が爆発しそうだった。
「統合失調症が、また……?」
そう思った。いや違う、これは――恋の病だ。
僕は再び病院へ戻った。彼女の姿を確かめずにはいられなかった。昼間なのに寒さが肌を刺し、額にはじんわりと汗が滲んでいた。外来入口の自動ドアを駆け抜ける。中に彼女の姿は――なかった。
「幻覚か……?」
そこへ、どこか見覚えのある女性が通り過ぎた。メガネ、少し茶色がかった髪。あれは確か――僕がスマホの壁紙にしていた、あの写真の女性。AKB48の小嶋陽菜に似ていたから、大切にしていた画像。
「真子ちゃんに似てると思って……」
それを彼女に見せた時のことを、思い出した。彼女は照れ笑いしながら「LINEに送って」と言った。僕は素直に送った。あの日から、何かが始まった気がしていた。
その時、看護師さんが言った。
「あの子、真子さんよ」
現実と記憶が重なる。歌、声、笑顔――すべてが繋がる。トリセツを歌うあの声。カラオケで聞いた、少し鼻にかかる甘いトーン。間違いない。あれは、真子だった。
真子は受付を済ませて、僕の前を駆け足で通り過ぎていった。追いかけることはできなかった。声をかけることもできなかった。手が届きそうで、届かない距離。
「まだ、赤い糸は繋がっているのだろうか……?」
あの時、僕は気づかなかった。立ち止まってくれていたかもしれない彼女の気持ちに。
翌朝、スマホの画面に見慣れた名前の通知があった。「いつも返さないけど、返事書くので返してます。話聞くのに、ご飯食べに行ってもいいけど、1人じゃ」その一文を何度も読み返した。心の中の何かが、そっと灯る。
次の日。
「昨日はバトミントンに行ってたから、返信できませんでした。ごめんなさい」
この文に、僕は胸が詰まった。彼女の生活の中に、ほんの少しだけでも自分が存在している。その事実が、涙が出るほど嬉しかった。
僕は真子を誘った。
「運動公園を散歩しませんか?」
返事はすぐに来なかった。けれど、しばらくして「いいよ」とだけ書かれた一文が届いた。たった三文字に、世界が開いた。待ち合わせは日曜日の午後。天気は曇り。風は冷たかったけれど、心は温かかった。彼女は白いパーカーにジーンズ。髪をひとつにまとめて、目元の奥が笑っていた。
「寒いね」
「うん、でも気持ちいい」
二人で並んで歩く。それだけで、言葉は必要なかった。途中、公園のベンチに座った。バナナミルクを買ってきた。彼女に渡すと、「なにこれ、懐かしい味」と笑った。僕は思い出す。あの日、バナナミルクの奇跡がなかったら、今日の僕はいない。
彼女に言った。
「実はさ、文学賞に応募したんだ。真子ちゃんとのことを、原稿用紙77枚に書いた」
真子は驚いた顔をして、すぐに目を伏せた。そして小さな声で言った。
「知ってたよ、なんとなく。でも、怖かった。読むのが」
「読むの、怖くないよ。あれは、僕が君に伝えたかった気持ちだから」
沈黙が流れた。風が髪を揺らし、遠くで子供の声が響いた。真子はポケットからスマホを取り出して言った。
「そのラブレター、LINEで送って。今度、ちゃんと読むから」
その時、僕は確かに感じた。まだ終わってない。いや、これが始まりだ。公園の出口で立ち止まり、彼女がぽつりと言った。
「私、最近すごく落ち込んでて。自分が何してるか、わからなくなるときがある。でも、今日、来てよかった」
「ありがとう。来てくれて」
沈黙。時計の針の音が聞こえる気がした。帰り道、彼女がふと呟いた。
「3年先にプロポーズするって、本当?」
「本気だよ」
彼女は笑った。少し泣きそうな顔だったけれど、僕の目にはそれが一番きれいに見えた。恋は、いつだって幻のようで、けれど、たしかにここにあった。帰宅後、僕は原稿用紙77枚を写真に撮って、PDFにして、真子に送った。その夜、彼女から返信が来た
「バレンタインデー、空いてたら会おう。バナナミルク、買ってくるね」
僕はスマホを抱きしめて、泣いた。これは夢じゃない。現実だ。