友達以上恋人未満

 下駄箱で靴を履き替える時間は、いつも短い。
 それでも、蓮が隣にいると、なぜか長く感じる。

「今日部活ないの」

 私が聞くと、蓮は靴紐を結びながら首を横に振った。

「ねぇよ」

「そっか」

 それだけで会話は終わる。
  続けようと思えば、いくらでも言葉は浮かぶのに、口には出ない。

 蓮は不良だ、と言われている。
 教師に目をつけられて、クラスでは距離を取られている。
 私も、それを知らないわけじゃない。

 でも、蓮は私に何かを強要したことは一度もなかった。
 放課後に呼び止めることも、無理に一緒にいようとすることもない。

 ただ、帰る方向が同じで、
 気づけば隣にいるだけ。

 それが、私たちだった。

 校門を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らす。
 蓮はポケットに手を突っ込んだまま、前を見て歩いている。

「蓮さ」

 名前を呼ぶと、少し間を置いてから「ん?」と返ってきた。

「昔のこと、覚えてる?」

 蓮は一瞬だけ足を止めた。
 それから、何事もなかったみたいに歩き出す。

「どれ」

「……助けてくれたこと」

 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
 あの日のことは、何度も思い出してきた。

 放課後の裏道。
 知らないヤンキーに絡まれて、声も出せずに立ち尽くしていた私。
 逃げることもできなかった。

 そこに、たまたま通りかかったのが蓮だった。

 大きな声を出したわけでも、殴り合いになったわけでもない。
 ただ、面倒そうに割って入って、短い言葉を交わしただけ。

 それだけで、世界が変わった。

「……まあ」

 蓮は曖昧に答えた。

「あれがなかったら、今こうして一緒に帰ってないと思う」

 自分で言っておいて、少し照れくさくなる。
 蓮は私のほうを見ずに、肩をすくめた。

「別に」

「別に、って」

「たまたまいただけだし」

 その言い方が、いかにも蓮らしい。
 優しさを、いつも雑に隠す。

 交差点で信号が赤になる。
 立ち止まった瞬間、距離が少しだけ縮まった。

 近い、と思う。
 でも、触れそうで触れない。

 私は、蓮の横顔を見る。
 整っているけど、どこか不機嫌そうで、無防備だ。

 ――友達。

 そう言えば、それで全部説明できる。
 でも、それだけじゃ足りない気もしている。

 信号が青に変わる。
 蓮は何も言わずに歩き出した。

 その背中を見ながら、私は思う。

 この距離が、心地いい。
 でも、ずっとこのままでいられる気はしなかった。

 友達以上で、恋人未満。
 その曖昧な場所に、私たちは立っている。

 それを壊す勇気も、
 進める覚悟も、
 まだ、持っていないだけで。

 家に着く少し手前で、道が分かれる。
 ここまで来ると、自然と歩く速度が揃う。

「じゃ」

 蓮が短く言う。

「うん」

 それだけで別れるはずなのに、今日は足が止まった。

「……なに」

 蓮が振り返る。
 少しだけ面倒そうな声。でも、ちゃんと待っている。

「明日、雨らしいよ」

「そう」

「傘、持ってきたほうがいいかも」

 自分でも、どうでもいいことを言っている自覚はある。
 それでも、蓮は否定しなかった。

「美咲は」

「私は、持ってく」

「ならいい」

 それで話は終わり。
 なのに、蓮はすぐに背を向けなかった。

 沈黙が落ちる。
 気まずいわけじゃない。ただ、何も言わない時間。

「……また明日」

 先に言ったのは、蓮だった。

「うん、また」

 その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなる。
 理由は分からない。ただ、安心した。

 家に帰っても、今日の会話が頭から離れなかった。

 何を話したわけでもない。
 特別なことも、何も起きていない。

 それなのに、
 蓮と歩いた帰り道だけが、妙に鮮明だった。

 次の日、予報どおり雨が降った。
 昇降口で傘をたたむと、すぐ横に同じように傘をたたむ人がいる。

「おはよ」

「……おはよう」

 朝の蓮は、放課後よりも無愛想だ。
 それでも、ちゃんと返事はする。

 校舎に入ると、何人かの視線がこちらを向く。
 もう、慣れた。

「また一緒?」

 小さく聞こえた声に、私は反応しない。
 蓮も、気にしていないふりをしている。

 教室に着く手前で、蓮は足を止めた。

「じゃ」

「うん」

 そこで一度、距離が切れる。
 それが、私たちの暗黙のルール。

 席に着いてからも、
 窓の外の雨を見ながら、ふと思う。

 この関係は、いつから始まったんだろう。

 助けてもらったあの日から?
 それとも、帰り道が重なった日から?

 分からない。
 でも、終わっていないことだけは、はっきりしている。

 放課後。
 廊下で蓮を見かけると、自然と足がそちらに向いた。

「帰る?」

「……ああ」

 たったそれだけで、一緒に歩き出す。
 約束なんて、していないのに。

 私はまだ、何も言えない。
 蓮も、たぶん同じ。

 友達以上、恋人未満。
 その言葉が、今日もぴったり当てはまる。

 でも――
 この距離が、少しずつ変わっていることに、
 気づいているのは、私だけじゃない気がした。

 校門を出たところで、蓮が少しだけ歩幅を緩めた。
 それに気づいて、私も速度を落とす。

 雨は弱くなっていたけど、傘を閉じるほどでもない。
 アスファルトに残った水たまりが、街灯の光を映している。

「なに見てんの」

 急に聞かれて、少し驚いた。

「水たまり」

「変なの」

 そう言いながら、蓮は私の視線の先を見る。
 それ以上、何か言うわけでもなく。

 こういうところが、不思議だった。
 興味なさそうなのに、ちゃんと付き合ってくれる。

 しばらく歩いて、コンビニの前を通り過ぎる。
 蓮が、ほんの一瞬だけ立ち止まった。

「寄る?」

「え?」

「喉渇いた」

 それだけの理由。
 私は少し考えてから、頷いた。

 店内は、放課後の高校生で少し騒がしい。
 蓮は無言で飲み物を選び、私はその後ろに並ぶ。

 レジを出たあと、店の外で蓮が缶を開けた。

「美咲は?」

「私は大丈夫」

「ふーん」

 それ以上、突っ込まない。
 そういう距離感。

 ベンチに座るでもなく、立ったまま飲む。
 特別な時間じゃないのに、なぜか覚えていたいと思った。

「なあ」

 蓮が前を向いたまま言う。

「……なに」

「周り、うるさいだろ」

 一瞬、意味が分からなかった。

「噂とか」

 ああ、と納得する。

「まあ、少しは」

「嫌なら、言えよ」

 その言葉は、思ったより低くて、真剣だった。

「蓮が?」

「俺が」

 短い会話。
 でも、胸の奥が少しだけ揺れた。

「……大丈夫」

「そ」

 納得したのか、興味を失ったのか分からない返事。
 それでも、その一言で十分だった。

 帰り道の途中、また分かれ道に差しかかる。

「じゃ」

 いつものように言うと、蓮は少し間を置いた。

「明日さ」

「うん?」

「昼、屋上行く?」

 予想していなかった言葉に、言葉が詰まる。

「……いいけど」

 少しだけ期待している自分がいた。

 家に帰って、ベッドに倒れ込む。
 天井を見つめながら、今日のことを思い返す。

 特別なことは何もない。
 それでも、
 「明日」が少しだけ楽しみになっている。

 友達以上、恋人未満。
 その曖昧な場所にいながら、
 私はもう、後戻りできないところまで来ている気がした。

 蓮がどう思っているのかは分からない。
 聞く勇気も、まだない。

 ただ、欲張って全部を失うくらいなら、今あるものを守りたかった。

 それが、私にできる精一杯だった。