夜明けが世界を染めるころ

馬車は、変わらず静かに揺れている。

夜の石畳を進むたび、
小さく上下する振動が身体を揺らした。

……殿下の前で、力を使ってしまったのは、まずかったかな。
あの場には、他の騎士団員もいた。

(見られた、よね……)

公にしないと言ってくれたけど、
噂というものは、意志とは関係なく広がってしまう。

そんなことを考えていると――

「大丈夫だよ。お嬢さま」

不意に、隣から声がした。

「え?」

顔を上げると、テオは前を向いたまま言う。

「セナ副団長が、うまく処理する。
 あの人、そういうの得意だから」

淡々とした口調。
けれど、その声には不思議と迷いがなかった。

「……何も心配いらない」

その言葉に、胸の奥の強張りが、少しだけほどける。

「セナのこと、そんなふうに思ってるんだね」

私が言うと、
テオは一瞬、視線を逸らした。

「別に……」

短くそう返してから、少し間を置く。

「信頼してないわけじゃないってだけ。
 気に入らないけど」

街灯の光が流れ、
その横顔を淡く照らした。

「そっか」

「……あの人は」

テオは小さく息を吐き、続ける。

「お嬢さまのことになると、いつも本気だから」

「え?」

「それに――」

今度は、こちらを見る。

ルビーの瞳が、まっすぐだった。

「俺もいる」

「一人にしない」

その言葉が、胸に静かに落ちる。

「……うん、ありがとう」

そう答えた、その瞬間。

馬車が小さく跳ねた。

思ったより強い揺れに、身体が傾き――

指先が、触れた。

ほんの一瞬。

けれど、はっきりとわかる温度。
離そうとした、その時。
テオの指が、私の手を包み込んだ。

「……え?」

驚いて顔を上げると、
テオは一瞬だけ、こちらを真っ直ぐ見つめる。

刹那の視線。

「……いまだけだから」

そう言って、視線を前に戻した。

「うん……」

小さく返事をすると、

「……怖かった」

低い声が続く。

「俺の判断が、正しかったのかって」

言葉を探すように、少し間を置いてから。

「お嬢さまが、傷つくんじゃないかって……」

そのまま、逃げ道を塞ぐように、
指が絡められた。

強すぎない。
でも、離す気はない力。

「……ごめん」

私がぽつりと漏らすと、

「うん」

短く返される。

テオは困ったように、少しだけ笑った。

「だから――離さない」

静かな声。

「馬車が着くまでは」

宣言みたいにそう言って、

握る力が、ほんの少しだけ強くなった。

夜の馬車は静かに進む。

窓の外を流れる灯りが、
2人の影をひとつに重ねていく。

胸の奥に残る共鳴の余韻が、
指先の温度と溶け合って――

それはもう、戦いの名残ではなく。

確かに“守られている”という、
やさしい実感だった。