夜明けが世界を染めるころ

ディランside

ボランティアの片付けが終わり、
俺は屋敷の奥にある別邸の執務室にいた。

灯りは落としたまま。
机に肘をつき、額に手を当てる。

静かすぎる部屋の中で、
昼間の光景が何度も脳裏をよぎった。

人を押しのけることもなく、
声を荒げることもなく、
ただ“そこに在るだけ”で場を鎮めた少女。

――ティアナ。

(公にしない)

その判断は、もう揺るがない。

だがそれは、
決して“何もしない”という意味ではない。

むしろ逆だ。

――表に出さないからこそ、
裏で整えねばならないものがある。

王子として。
そして――彼女を知ってしまった一人の人間として。

「オーウェン」

低く名を呼ぶ。

「は」

「今日の件、正式な報告書は上げるな。
 だが、完全に消すこともしない」

オーウェンは一瞬、戸惑い――すぐに察した。

「……密録、ですね」

「そうだ」

俺は静かにうなずく。

「私の名で封印する。
 閲覧権限は、私とセナだけだ」

それは異例中の異例。
だが、王族の権限を使うなら今しかない。

「ティアナ嬢を、守るために?」

「……“全員”を守るためだ」

そう答えながら、
胸の奥でわずかに痛みが走る。

彼女が“希望”として知られれば、
人は彼女を信仰し、利用し、縛ろうとする。

それは救いではない。
静かで、逃げ場のない牢獄だ。

「そして、ティアナ嬢には伝えるな。
 彼女は、知れば気にする」

オーウェンは苦く笑った。

「確かに……」

机の上に置かれた一枚の紙を、指で押さえる。

今日の出来事を簡潔にまとめた文書。
称賛も、評価も、功績もない。

ただの“事実”だけ。

「評価されない代わりに、
 安全と選択肢を与える」

それが、俺の出した結論だった。

王子としては、不完全かもしれない。
だが――人としては、これしか選べなかった。

そのとき、控えめなノック音が響く。

「殿下」

扉越しに、セナの声。

「入れ」

セナは一礼し、室内の空気を察したように視線を伏せた。

「決められましたか」

「ああ」

隠すことなく告げる。

「今日の件は、公式には
 “未然に防がれた小規模事案”として処理する。
 主導者の名は、どこにも出さない」

セナは、深く息を吐いた。

張り詰めていた何かが、ようやく緩んだようだった。

「……ありがとうございます」

「代わりに」

俺は声を低くする。

「君の責任は、重くなる」

それは警告であり、信頼でもあった。

「彼女の周囲に集まる視線は消えない。
 表に出さなくとも、嗅ぎつける者は必ずいる」

その言葉に、セナの瞳が鋭く光る。

「そのすべてから、彼女を遠ざけろ。
 必要なら、私の名を使え」

一瞬の迷いもなく、セナは片膝をついた。

「必ず」

その姿に、胸の奥がわずかに熱を帯びる。

騎士としてではない。
一人の男としての覚悟を、確かに感じた。

「これは命令ではない」

俺は、静かに言った。

「同じ願いを持つ者同士の、約束だ」

視線が交わる。

王子と騎士。
立場も、役目も違う。

だがその夜だけは――

たった一人の少女を守るための、同盟だった。

その名を、誰にも知られぬように。

彼女が、
“ただのティアナ”でいられる未来のために。