執務室は、いつもより静かだった。
書類の匂いと、磨かれた木の机。
聞き慣れたはずの空気が、今日は少しだけ違って感じる。
私は、ソファに腰掛けていた。
もう痛みはない。
けれど、体の奥に残る疲労だけが、戦いの名残を告げている。
「……無理は、していないな?」
向かいの机から、父――アドルフが視線を寄こす。
「はい。もう大丈夫です」
そう答えると、彼は一度だけ書類から目を上げ、私を見た。
「医師の言葉を、信じていいという顔だな」
「疑っているように見えました?」
「少しな」
私はスッと息を吸う。
「……蝶の会で、
私はお父様の姿を見かけたんです」
静かな声だった。
私の記憶――
それは、母・アイリスとお父様が言い争っていた場面だと、ずっと思っていた。
けれど、それは違ったのだ。
一度、息を整える。
アドルフは、否定も肯定もせず、ただ黙って聞いている。
「……サーフェスと話しているお父様も、見ました」
顔を上げる。
「あの時から、
お父様も動こうと決めていたんですね」
正直な言葉だった。
「来てくださるとは……思っていませんでした」
父は、迷いなく答える。
「当たり前だ」
低く、だが揺るぎのない声。
「娘一人に、すべてを背負わせるわけにはいかぬ。
殿下とは話をしていた。
いずれガイルを叩くため、協力もしていた」
そして、一拍。
「だが――
すべてを終わらせたのは、お前たちだ」
視線が、まっすぐ私を射抜く。
「本当によくやった」
胸の奥が、静かに震えた。
「……それから」
父は、少しだけ言いにくそうに続ける。
「マルクもな……
自分から“行く”と言った」
私は、思わず目を瞬いた。
「あいつの気持ちを、私は分かっていなかった」
短い沈黙。
「だから、今度は見守りながら指導していくことにした」
それは、拒絶ではなく――
確かな、受け入れの言葉。
私は、ゆっくりと頷く。
「……そうですね」
その一言に、
今の私が込められるすべてが詰まっていた。
「……で」
ふいに、父が切り出した。
「殿下とは、どうするつもりだ?」
その問いが来るとは思っておらず、
私は一瞬、言葉を失った。
「え?」
素っ頓狂な声が出る。
「……結婚するのか?」
「い、いえ!
あ、あくまで……契約上の関係なので!」
必死に否定する私に、
父は特に驚く様子もなく、短く頷いた。
「そうか」
その反応が、逆に落ち着かない。
「……だが」
父は、少しだけ目を細める。
「殿下は、お前を手放すつもりはなさそうだな」
「……は?」
「殿下が、ティアナを本気で想っているのは分かっていた。
だからこそ――預けていたのだ」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の重みは、十分すぎるほどだった。
胸の奥が、むず痒くなる。
(……お父様、そんなことまで)
私は視線を逸らし、
どう返せばいいのか分からないまま、黙り込んだ。
「……まあ、いい」
父は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「好きにしなさい」
こちらを見る視線は、もう探るものではない。
「お前が決めればいい」
それは放任ではなく、
“信じている”という許しだった。
胸の奥に、あたたかいものが静かに落ちる。
「……はい」
短く返したその声は、
自分でも驚くほど、まっすぐだった。
書類の匂いと、磨かれた木の机。
聞き慣れたはずの空気が、今日は少しだけ違って感じる。
私は、ソファに腰掛けていた。
もう痛みはない。
けれど、体の奥に残る疲労だけが、戦いの名残を告げている。
「……無理は、していないな?」
向かいの机から、父――アドルフが視線を寄こす。
「はい。もう大丈夫です」
そう答えると、彼は一度だけ書類から目を上げ、私を見た。
「医師の言葉を、信じていいという顔だな」
「疑っているように見えました?」
「少しな」
私はスッと息を吸う。
「……蝶の会で、
私はお父様の姿を見かけたんです」
静かな声だった。
私の記憶――
それは、母・アイリスとお父様が言い争っていた場面だと、ずっと思っていた。
けれど、それは違ったのだ。
一度、息を整える。
アドルフは、否定も肯定もせず、ただ黙って聞いている。
「……サーフェスと話しているお父様も、見ました」
顔を上げる。
「あの時から、
お父様も動こうと決めていたんですね」
正直な言葉だった。
「来てくださるとは……思っていませんでした」
父は、迷いなく答える。
「当たり前だ」
低く、だが揺るぎのない声。
「娘一人に、すべてを背負わせるわけにはいかぬ。
殿下とは話をしていた。
いずれガイルを叩くため、協力もしていた」
そして、一拍。
「だが――
すべてを終わらせたのは、お前たちだ」
視線が、まっすぐ私を射抜く。
「本当によくやった」
胸の奥が、静かに震えた。
「……それから」
父は、少しだけ言いにくそうに続ける。
「マルクもな……
自分から“行く”と言った」
私は、思わず目を瞬いた。
「あいつの気持ちを、私は分かっていなかった」
短い沈黙。
「だから、今度は見守りながら指導していくことにした」
それは、拒絶ではなく――
確かな、受け入れの言葉。
私は、ゆっくりと頷く。
「……そうですね」
その一言に、
今の私が込められるすべてが詰まっていた。
「……で」
ふいに、父が切り出した。
「殿下とは、どうするつもりだ?」
その問いが来るとは思っておらず、
私は一瞬、言葉を失った。
「え?」
素っ頓狂な声が出る。
「……結婚するのか?」
「い、いえ!
あ、あくまで……契約上の関係なので!」
必死に否定する私に、
父は特に驚く様子もなく、短く頷いた。
「そうか」
その反応が、逆に落ち着かない。
「……だが」
父は、少しだけ目を細める。
「殿下は、お前を手放すつもりはなさそうだな」
「……は?」
「殿下が、ティアナを本気で想っているのは分かっていた。
だからこそ――預けていたのだ」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の重みは、十分すぎるほどだった。
胸の奥が、むず痒くなる。
(……お父様、そんなことまで)
私は視線を逸らし、
どう返せばいいのか分からないまま、黙り込んだ。
「……まあ、いい」
父は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「好きにしなさい」
こちらを見る視線は、もう探るものではない。
「お前が決めればいい」
それは放任ではなく、
“信じている”という許しだった。
胸の奥に、あたたかいものが静かに落ちる。
「……はい」
短く返したその声は、
自分でも驚くほど、まっすぐだった。
