夜明けが世界を染めるころ



そんなある日。

廊下を歩いていると、
向こうから来た人物と視線が合った。

ふわりと、ジャスミンの香りが漂う。

それだけで自然と背筋が伸びた。

「お母様。おはようございます」

深く頭を下げると、

「いまさら、その呼び方をしなくてもいいわよ」

柔らかな声が返る。

「少し、話しましょうか」

私は一瞬だけ戸惑い、
それから静かに頷いた。

「……はい」

並んで歩き出す廊下に、
午後の光がやさしく差し込んでいた。



応接室。

マリアンヌ様は優雅に紅茶を口に運んでいる。

私は向かいの席で、
どこに視線を置けばいいのか分からずにいた。

「あ、あの……」

「なに?」

「……私が、アイリスの娘だと知っていて、
 今まで黙っていてくださったんですよね」

戸籍を、アドルフ様とマリアンヌ様の子としていたこと。
それを彼女が承諾していたこと。

すべて、知ってしまったあとだった。

「ええ」

カップを置き、彼女は小さく微笑む。

「これで、借りは返せたかしらね」

「……それは、どういう意味ですか?」

「少し、昔話をしましょう」

紅茶の湯気が、ゆっくりと立ち上る。

「私とアドルフ様はね、契約結婚だったの。
 そこに愛なんてなかったわ」

淡々とした声。

「でも――マルクは違う」

その名を口にした瞬間、
彼女の声音がわずかに揺れた。

「私にとって、あの子は宝物よ」

そっと、自分の腹部に手を当てる。

「出産のときに出血が酷くてね。
 もう、子どもを産めない身体になったの」

沈黙が落ちる。

「そのあと、アドルフ様はアイリスと恋に落ちたわ。
 ……大して珍しいことでもない。
 正直、それでもよかったの」

「マルクが、いたから」

けれど――と、彼女は続けた。

「マルクは身体が弱く、生まれてすぐに死を彷徨ったの」

医師たちが首を振り、
誰もが“もう無理だ”と思った。

「私も、アドルフ様も……覚悟したわ」

そこで、彼女は静かに目を伏せる。

「――でも」

「アイリスが、力を使ったの」

「共鳴……ですか?」

「ええ」

マリアンヌは、はっきりと頷いた。

「見た瞬間に分かったわ。
 これは、使ってはいけない力だと。
 禁忌のものだと」

それでも。

「彼女はマルクを助けた」

「自分を犠牲にしてでもね」

胸が、締めつけられる。

「見殺しにすることも、できたはずよ」

そうすれば――

「跡取りのいない、
 子も産めない私ではなく、
 アイリスが正妻になる道もあった」

マリアンヌは、真っ直ぐに私を見つめた。

「それでも彼女は、そうしなかった」

「だから私は、決めたの」

「――あなたを守る、と」

初めて聞かされる真実。

そして、
知らぬ間に守られていたという事実。

胸の奥が、熱を帯びていく。

言葉にしようとすると、
喉が震えて何も出てこなかった。

マリアンヌは、ふっと微笑む。

「……アイリスは、優しい人だった」

午後の光が、カップの縁できらめいた。

その輝きの中で、
私はようやく気づいた。

ずっと嫌われていると思っていた。
でもこの人はずっと――
私を守り続けていたのだと。