夜明けが世界を染めるころ



真夜中の屋敷は、音が少ない。

灯りを落とした廊下を進み、お嬢様の私室の前で足を止める。
蝶の会――真夜に行われる、危険な集まり。

本来ならば、こんな時間にご令嬢を外へ連れ出すなど許されない。
だが、それでも向かわねばならない理由があった。

「ユウリ」

扉の向こうから、控えめな声。

「入って」

失礼します、と一言添えて中へ入る。

部屋は薄暗く、カーテン越しの月明かりが床を照らしていた。
お嬢様は既にドレスに身を包み、鏡の前に立っている。

「……大丈夫ですか。寒くは」

「平気」

短く答えてから、ふと思い出したように言う。

「ねえ」

振り返り、距離を詰めてくる。

「ネックレス、つけてくれる?」

一瞬、思考が止まる。

「……恐れながら」

「アリスには頼めないでしょ。夜中だし」

それは、正論だった。
この時間に侍女を起こすのは、確かに不自然だ。

「それに」

さらに一歩。

「ユウリの方が、慣れてるでしょ?」

――距離が、近い。

ドレス越しに伝わる体温。
微かな香り。

意識するな。
今夜は、危険な場所へ向かう。

「……失礼いたします」

私は一歩踏み出し、慎重にネックレスを受け取った。

背を向けるお嬢様の首筋に、月明かりが落ちる。
細くて華奢だ。
指先が、わずかに震えた。

気を取られるな。

これは任務だ。
守るべき主であり、今夜は特に――標的になり得る存在。

留め具に集中する。

「ありがとう」

小さな声。

「ユウリがやってくれると、安心する」

その言葉に、胸の奥が揺れる。

――だからこそ、危険なのだ。

「蝶の会 油断できません」

声を低く、意識的に冷たくする。

「会場では、私の指示から離れないでください」

「うん、分かってる」

素直な返事。

留め具が、静かに留まる。

「……完了いたしました」

「ありがと」

振り返る笑顔は、いつもと変わらない。

それが、なおさら心を乱す。

だが。

私は一歩、確実に距離を取った。

――気を引き締めろ。

今夜は、彼女の無自覚な言葉や仕草に、心を奪われている場合ではない。

守るべきは、感情ではなく、命だ。

「参りましょう、お嬢様」

執事としての声で告げる。

お嬢様は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いた。

「うん」

月明かりの下、
危険な夜へと歩き出す。

私は、その一歩後ろで、
剣よりも鋭く、心を張り詰めていた。