夜明けが世界を染めるころ

「……街で、ある商人から宝石を買ったのです」

ニーナは唇を噛みしめ、一度息を整えてから続けた。

「理由はわかりません。ただ……とても魅力的に見えて……。それからです。
また声をかけられました。気になる殿方に使えば、その気にさせてしまう媚薬がある、と」

彼女は俯いたまま、言葉を絞り出す。

「最初は、そんな怪しいもの、胡散臭いと思っていました。
……それなのに私は、得体の知れないそれを“媚薬”だと思い込み、購入してしまったのです」

小さく震える声。

「なぜそんなものを買ってしまったのか。
なぜ、それを殿下に使おうとしたのか……今でもわかりません。
正常な判断が、まったく出来ていなかったのです」

嘘をついている様子はなかった。
怯えと混乱だけが、ありありと伝わってくる。

「その商人の特徴は?」

殿下の問いに、ニーナはすぐに答えた。

「顔はローブで隠れていて見えませんでした。
年齢は30代後半から50代ほどの男性で……右の頬に、古傷のような痕がありました」

その言葉を聞いた瞬間――
私の背筋を、冷たいものが走った。

(ルイが言っていた男と……同じ?)

殿下は黙ったまま、ニーナの話を最後まで聞いていた。
オーウェン団長も口を挟まず、沈黙の中で彼女の証言を受け止めている。

「……なるほど。わかったよ、ニーナ」

静かな声だったが、そこには確かな重みがあった。

「君の話は信用している。
だが今回の件は、決して軽いものではない。
誰に唆されたのか、思い出した際には素直に話しなさい」

「……はい。わかりました」

ニーナは深く俯き、指先を絡める。
その手が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。

――恐怖だけではない。
そこには、どこか哀れさもあった。

人は“愛”の名のもとに、簡単に自分を見失ってしまうのだと、思い知らされる。

「……それより、君の父は?」

殿下の視線が鋭くなる。
デホラ男爵の姿が、この場に見当たらない。

「お父様は……体調を崩しており、寝込んでおります」

「そうか……もういい。帰るとしよう」

殿下はそう言って静かに立ち上がった。

私も自然と後に続く。
雨はさらに強まり、馬車の周囲はぬかるんでいた。靴先がわずかに沈む。

――この雨の中、何が起こるかわからない。
それでも、今はただ殿下に従うしかなかった。

オーウェン団長が何事もないかのように隣へ並び、周囲へ視線を巡らせる。

「雨が強くなってきました。足元にお気をつけください」

そう言われ頭を下げる。

「ありがとうございます」

馬車へ戻る道すがら、私は自分の胸の内を静かに確かめていた。

ナタリーさんのこと。
母のこと。
ニーナの事件。

守るべきものも、わからないことも多すぎる。

それでも――逃げるわけにはいかない。

馬車に乗り込むと、殿下は前方を見据え、淡々と指示を出した。
私はそっと席につき、窓を打つ雨音に耳を澄ませながら、心を整える。

――この先に何が待っているのかは、まだわからない。
それでも、進むしかないのだ。