夜明けが世界を染めるころ

「私も、もう歳でしょう?」
ナタリーさんはどこか穏やかな声で言った。

「実はねー、病気もしてるのよ」

「そうなんですか? お医者様には?」

知らなかった。
長年勤めてくれた退職金で施設の費用は賄えているはずだ。
けれど、そんなこととは別に、身体は確実に時を重ねていたのだ。

「お医者様にはね、もうあと少しって言われているのよー。
いまさら、どうこうしようなんて思ってないの。
もう色々なことが、わからなくなってるもの」

「……そうですか」

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「だからね、これを頼むわ」

そう言って渡されたのは、小さな袋だった。
驚くほど軽い。中身がわからないほどに。

「これは……?」

「花の種よ。オレンジの花を咲かせるの。
私が死んだら、お墓にまいてくれる?」

そう言って、ナタリーさんはこそっと耳打ちする。

「ええ、わかりました」

「絶対に、誰にも内緒よ」

少し真剣な顔をして、続ける。

「じゃないとね、妖精さんが怒って、私を天国に連れていってくれなくなっちゃうから」

うふふ、とナタリーさんは笑う。
その笑顔は、昔と何ひとつ変わらない。

お茶目で、優しくて、
いつも誰かの心を軽くしてくれる人。

私は小袋をそっと握りしめる。
その軽さとは裏腹に、胸に残る重みを感じながら


「お待たせしてすみませんでした」

「構わないよ。何かわかったかい?」

「いえ、何も」

「そう」

「でも、会えて良かったです」

きっかけは母の死の真相を知りたくてここに来たことだった。
でも、会えて良かった――お世話になったナタリーさんに感謝していたのに、余裕がなくてずっと後回しにしてしまっていたことを思い出す。

施設を後にし、馬車は再び走り出す。

「ここは?」

「デホラとニーナがいるところだね。今は、2人とも教会で働いているんだよ」

「そうでしたか……随分と寛大なのですね」

財産を没収され、辺境の地に送られていたことは知っていた。
だが、教会で働いているとは聞いていなかった。

第一王子に対する暗殺未遂事件――命があるだけでも十分な処置のはずなのに、
それにしてもこの扱いは、殿下にしては随分と甘い。

不意に、殿下の思惑や計算が頭をよぎる。
彼の裁量はいつも予想外だ。
そして、この穏やかさの裏に、どれほどの厳しさと計算があるのか――それを思うと、少し背筋が伸びる。