夜明けが世界を染めるころ

「その言葉を聞けて安心したよ」

何故か、殿下は機嫌が良さそうだ。
柔らかな微笑みが、馬車の中の空気を少し温める。

「そういう殿下は、お相手はいらっしゃらないのですか?」

第一王子。婚約者候補は何人もいると聞いている。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群――非の打ち所がない。
少々、性格に難があるかもしれないが。

「おや、気になるかい?」

色っぽく小首を傾げる。
その仕草に思わず視線が吸い寄せられる。

「いえ、全く」

「はは、釣れないなー」

目の前の殿下は、何を考えているのかまったく読めない。
穏やかに笑っているその奥で、きっと先の先まで見越しているのだろう。

殿下の結婚相手は、きっと国の繁栄や利益が最優先となる。
自分の気持ちを優先することは、難しいだろう。

それは――私にとっても同じことだ。

それでも。

もし将来を共にするのなら、
お互いに信頼できる相手であってほしい。


「殿下は…」

言いかけたところで、馬車がゆっくり停まる。

「ついたみたいだね。何か言ったかい?」

「いえ、行きましょう」

馬車を降りると、殿下がさっと手を差し伸べ、自然にエスコートしてくれる。
手の温もりが伝わり、少し胸がざわついた。
雨上がりの空気が、しっとりと落ち着いた香りを運ぶ。


マーガレット老後施設。ナタリーが入所している場所だ。
ここに来るのは、随分久しぶりだった。
あんなにお世話になったのに、数回しか訪ねられていない自分を、少し情けなく思う。

施設の人にユウリが話をつけると、すぐに通してもらえた。

「こちらにどうぞ。ナタリーさん、だいぶ物忘れがひどいので、あまりわからないと思いますが」

「ええ、そうみたいですね」

ユウリ、殿下、レイさんも、静かに後ろからついてきてくれる。少し離れた所で周りを警戒するオーウェン団長。

「あちらです」

窓の外を静かに見つめる老婆。
随分と年老いてしまったのだな、と心の奥で感じる。

「ナタリーさん、お久しぶりです」

私を見て、ほんの一瞬、驚いたような表情をした気がした。

「おやぁ。だれだい?この可愛いお嬢さんは。
私にこんな娘はいたかなぁ」

「昔お世話になったティアナです」

目線を合わせ、ナタリーさんをじっと見つめる。


「そうかい、綺麗な子だねぇ。
頑張ってきた手をしてるね」

ナタリーさんが、私の手を取る。
剣術や馬術に励んできた手のひらの皮膚は硬く、他の令嬢の手とは違う。
それを、こうして褒めてくれる。

胸の奥が、じんわり熱くなる。
――泣きそうになる。

長い間、忘れられずにいた温もりが、今ここにある。
ナタリーさんの手の温かさと、穏やかな声に包まれ、心がふっと軽くなる。