夜明けが世界を染めるころ

「あの金額で落札した人物……只者ではなさそうですね」

セナが、2階席にいた人物を見つめる。
すでにカーテンは閉められ、落札者の姿は見えなくなっていた。

本当なら正体を探りたいところだが、深追いは危険だ。
今夜はひとまず様子見とした方がいいだろう。

それに――裏では、きっとユウリが調べているはずだ。

「そうね……ちょっと化粧室に行ってくるわ」

「わかりました。すぐ近くにおりますので」



私は足早に化粧室へ滑り込む。
誰もいないことを確かめ、仮面を外した。

「うぇっ……はぁ……」

個室に入り、吐き気をこらえる。
胃液しか出てこないのに、喉が焼けるように痛んだ。

さすが貴族用オークション会場だけあって、
化粧室まで豪奢な造りだ。

個室内には水道も備え付けられており、
そこで口元を洗う。

――黒いダイヤ。
――よみがえる、断片的な記憶。

誰かが言い争っている。

男と、女の人。

「暴走」
「魔女の雫」

……違う。

これは、誰かの話じゃない。

私の、記憶?

わからない。

でも記憶の中の女性の名前を男が叫んでいた…
アイリスと。

鏡に映る私は、真っ青な顔をしていた。


あの女性はだれ?
でも…私は知っている。

「……だめ」

ここで考えても、答えは出ない。

今は、この《蝶の会》について調べることが先だ。

そう心に決め、仮面を付け直す。



化粧室を出ると、会場のざわめきは次第に落ち着きを取り戻していた。

その中で――ふと、視線を引き寄せられる人物がいた。

……嘘でしょう。

仮面をつけていても、わかる。

あれは――父だ。

私は息を潜め、距離を保ったまま父の後を追う。
セナに声をかける余裕はなかった。

さらに驚いたのは、父が先ほどワインを落札した人物と
会話を始めたことだった。

落札者は、ゆっくりとボトルを抱えたまま父の前に立つ。

視線が、一瞬だけ交わる。

言葉はなくとも、
2人の間には計算された緊張が漂っていた。

やがて父が、低い声で口を開く。

「……やはり、君が手に入れることになったか」

「ええ。ですが、これは始まりにすぎません」

父の目が細められる。

「なるほど……君の目的は、やはりそこか」

会話は暗号のようで、私には全容が掴めない。

けれど、雰囲気だけで伝わってくる。

――この2人の間には、
ただの取引ではない“秘密の計画”がある。

「分かっている。君となら、この計画を完遂できるはずだ」

その瞬間、私ははっきりと理解した。

――父は、何かを企んでいる。

――落札者と共に、
 何か大きなものを動かそうとしている。

それが善のためなのか。
それとも――闇へと続く計画なのか。

今の私には、まだ分からなかった。