髪結いの亭主と呼ばれても

 芸能人御用達サロンのトップスタイリスト、保阪彩子は、今夜もくたびれ果てて自宅マンションに帰ってきた。
「あれ⋯⋯?」
 玄関の鍵が開いており、一瞬ヒヤリとしたが、
「彩ちゃん、おかえり」
 ドアの内側からの思いがけない人の声に、一瞬で疲れも吹き飛んだ。
「セイちゃん!」
 美しい顔を輝かせ、目の前の男に思い切り抱きつくと、唇で唇を塞がれる。
 長いくちづけのあと、彼は囁くように、
「純が寝てるから、静かにね」
「あ⋯⋯了解、了解」

 彩子は普段、都心の広いマンションに一人で暮らしている。
 そこへ、今日はサプライズで、夫である誠一が、息子の純と共に遊びに来ていた。

 夫と子供が遊びに来る、というのも変な話だが、彩子と誠一は別居中。
 しかし、それは決して不仲だからではない。
 不仲どころか、付き合いが長くなるほどに愛は増してゆく。

 彩子は、愛しい息子の寝顔をじっと見つめながら、
(ごめんね⋯⋯たまにしか会うことができなくて)
 会えない間に、どんどん大きくなってゆく息子を見ていると、自分の選んだ道が本当に正しかったのかわからなくなる。

「お腹空いただろう?大量にカレー作ったから食べなよ」
 誠一が言う。
「昼も食べてないから、もうおなかペコペコだわ。いただきまーす!」
 誠一は、まるで欠食児童のような勢いでカレーを食べる彩子のことを心配そうに見つめながら、
「痩せたね。昼も食べてないって、いつも?」
「ええ⋯⋯。ダメね、私。典型的なワーカーホリックかな。本当は、仕事なんかやめて、あなたと純のいる地元に戻るべきなのかもしれない。あの子の寝顔を見てたら、胸が痛くなるの」
「大丈夫だよ。純のことは僕がちゃんと見てるし、普段から言い聞かせてるから。ママは君のことが世界でいちばん大切だからこそ、都会で一生懸命働いてる。それに、淋しいのはママのほうなんだよ、って」
「セイちゃん⋯⋯」



「え?保阪さん、また早退希望?」
 東北某所の農協にて、誠一の上司は辟易したように言う。
「申し訳ありません。子供が高熱を出して、保健室で寝ていると連絡がありまして⋯⋯」
「そう⋯⋯。じゃあ、お疲れ様」
「ありがとうございます」

 そそくさと帰る誠一のことを、職場の女たちは、
「保阪さんって、本当に空気読めない人よね。やたら子供を理由に早退したり休んでばかり」
「まあ、シングルファザーで大変なのはわかるけど、私みたいな子なしに、しわ寄せが来るのは迷惑だわ」
「え?あの人、シングルファザーじゃないわよ。指輪もしてるじゃない。奥さんが、東京でカリスマ美容師だかなんだか知らないけど、稼ぎまくってるとか。だから、保阪さんは契約社員でも余裕で暮らせるんでしょ」
「えー!それならもう、東京で専業主夫になればいいのに。片手間で働くな!って言いたくもなるわよ」

 このように、誠一は職場ではかなりの嫌われ者である。
 誠一が農協での仕事を選んだのは、家庭の事情に合わせやすいという話だったからなのだが、現実はそうでもない。
 経済的な面で言えば、彩子の稼ぎだけで、一家全員、十分食べていける。
 誠一が仕事をしているのは、彩子の親類関係の手前、地元で専業主夫、というわけにもいかないから。
 純が小さい頃は、誠一は東京で専業主夫をしていた。
 しかし、純は小児喘息の病弱な子だった為、誠一は純を地元に連れて帰ることを決意。

 そこから別居生活が始まった。
 別居というと聞こえが悪いが、形としては妻が単身赴任しているようなものだ。

 帰郷後も、誠一は、しばらく家事と育児に専念していたのだが、彩子の親類はそのことに対していい顔をしない。
「誠一さんって、まさに髪結いの亭主ね。彩子が美容師として成功したからって」
 マイペースな誠一も、流石に愛する妻の家族を敵に回したくはない為、今はファーストプライオリティは息子と決めながらも、仕事もしているという状態である。

 誠一と彩子は、高校時代からの付き合いということもあり、同級生らも、
「あいつ、学園マドンナと結婚した挙げ句、ヒモだなんて、いい身分だよなー!ある意味、一番の勝ち組だよ」
「まともな男の神経の持ち主なら、耐えられないけどな」
 妬みと蔑み混じりに、そんな陰口を叩いている。

 髪結いの亭主。ヒモ。男としてあり得ない。
 そんなレッテルを貼られながらも、誠一は馬耳東風、泰然自若。
 なかなか会えない彩子の分まで、純に愛情を注ぎ、一緒の時間を大切にしている。

 誠一だって、本当は愛する妻と一緒に暮らしたい。
 それでも、自ら今の生活を選んだ。

 彩子は彩子で、母親のくせに仕事が最優先なのか。芸能人御用達の店のトップスタイリストだからいい気になっているのだろうと、これまた妬み混じりで非難されることもある。

 今では、髪結いの亭主と揶揄される誠一だが、実は、誰も知らないほどの熱い情熱で、昔から彩子のことを愛し続けてきた。


to be continued