Sugar Ballad

 1年半の幸せな日々の後。急に別れがやって来る。
「その日」のことは今も覚えている。
 冷たい雨の降る、駅前の公園。そこで彼が語る言葉。その内容は、彼に与えられていた「時間」が終わり、親の決めた婚約者と結婚をしなければならないこと。そして中園家の企業の一つを継ぎ、中東へ行かなければならないというものだった。それが、彼と中園家の間で交わされた「決めごと」だったと私は知った。
 雨の中。傘を投げ捨てた彼は、私を強く抱きしめた。
 聞こえていたのは、雨音と、濡れたアスファルトの上を走る車のタイヤの音。
「舞。俺は君と離れたくない」
 公園に入ってきた人は「何事だろう?」と私たちをちらっと見て、それでも立ち止まることなく、傘を差して歩いていた。遥木さんはしばらく黙ったまま動かなかった。私は雨で濡れて、冷たさの中で呆然としながら考えていた。
〈あなたのために私は何が出来るだろう?〉
 彼に抱きしめられながら私は思う。
〈でも、別れることくらいしか出来ないな〉
 涙よりも先に諦めの笑みが自然と口元に浮かんでいた。
「遥木さん「さよなら」しましょう」
 私は、遥木さんとの別れを決めた。離れたくなかったけれど「私が居ることで彼を困らせてはならない」と。遥木さんも次の人生を歩みだすことが出来るだろう。
「舞。どうしてそんなことを言うんだ?」
 遥木さんは私の言葉に戸惑った。そして私の「本当の気持ち」を聞き出そうとした。私は遥木さんの前で泣きたくなくて、彼の前から走り去った。雨の中、濡れながら涙を零さないように走り、彼のことを考えた。
〈これで遥木さんは婚約者と結婚して遠い異国で幸せになれる〉

 だけど私は間違っていた。自分が我慢すれば彼が幸せになれると思い込んで、彼の気持ちを、彼の心を見ようとしていなかった。

 あの時、あなたは何と言っていたのだろうと今でも考える。

 * * * * *

 彼と別れた一ヶ月後。その「訃報」に私はスマホを床に落とした。それはスマホの画面「ネットのニュース」として、文字で目の前に。
〈中園コーポレーションの御曹司が中東で自殺〉
 見出しがセンセーショナルでインパクトがあったからなのか、閲覧数が伸びてトップニュースになっていた。書いたのは過激なニュースを提供する週刊誌の記者で、内容に目を通したけれど「誇張」があるような気がした。どこからが本当のことで、どこからが真偽不明なのかも分からないが、亡くなったのは数日前だと。
「そんなの嘘だよ。そんなはずないよ」
 ニュースを信じられなくて一日中そう自分に言い聞かせるように呟いていた。あの日、別れてから、私は遥木さんが遠い中東の地で「幸せに暮らしている」と思っていた。そう信じていた。そうでなければ悲劇だと。

 その日の夜。眠れないベッドの中で着信音が鳴った。
 それは遥木さんからだった。
「よかった。あのニュースはデタラメだったんだ」
 ただ、それは「予約着信」だった。
『君が居ない世界で生きることは出来ない。羽根があったのならここを飛び去って君の居る空へ飛んでいけるのにね。ごめんね。舞。俺は絶望してしまったんだ。さよなら』
 それが、彼が亡くなる前に私宛に送った最期のメッセージ。
 私はスマホを抱きしめるように強く握って、涙を零す。その時「彼は私が居なくなったことで死を選んだ」と分かってしまった。どうして、あの時に彼を追い詰めるように別れてしまったのだろうと。私は私を責めた。

 彼の自殺は私の心を壊した。
 まともに生活も出来ないような日々を過ごす。
 ネットのニュースのコメント欄には「あることないこと」書かれていく。悪意のある言葉の羅列や、心無い言葉。中には遥木さんの死を面白がっているような言葉もあった。それを読むと、心が裂けるような思いだった。
〈見たくない。聞きたくない〉
 ネットもテレビも見ないで泣いて過ごす。
〈いっそ、このまま私も彼を追って死んでしまおうか〉
 そんなことも考えた。けれど、私を育ててくれた祖父母の顔を思い出すとそれは出来なかった。私を生む時に母は亡くなっている。その私が、自ら命を絶つことは祖父母の絶望にしかならないことが分かっていた。
 とにかく心が悲しくて泣いて暮らしていた。
 彼がもうこの世に彼は居ないことを知って、それが悲しくて。

 * * * * *

 数年後。東京のビルの隙間から6月の青空を見る。
〈都会の夏がまたやって来る〉
 あれから数年が経って、私は会社員になった。
 結局、泣きじゃくって、泣いても、泣いても、この生活は続いていく。生きていくために、悲しみを心の奥底に仕舞った。遥木さんの死から何とか立ち直り、大学を卒業して会社員として暮らす。あの幸せな日々は遠い夢のよう。
 でも「ふとした瞬間」に思い出して心が痛む。
 一羽の白い鳥が、その翼で空へと羽ばたいていくのを見た。
〈あなたが言っていた「羽根」という言葉の意味が、私にも少しだけ分かったような気がする。あなたの居ないこの世界で〉
 羽根があるのなら、あの青空へ飛び去って行きたいと。このアスファルトの上で、あなたの居ない人生がずっと続くと考えると「飛び去ってしまいたい」と思うんだよ。あの空の向こうで、あなたに会えるのなら。
 心は、感動も、喜びも、自分のものに思えなくなってしまった。自分のことなのに、まるで再放送の映画を見ているかのような気持ちが拭えなくなって。この世界の感動や、喜びは、自分のものじゃないような気がしていた。