Sugar Ballad

『君。俺の絵のモデルになってくれないか?』

 大学の構内、正門を過ぎて正面に見える記念講堂へ続く道。
 その時の私は大学生で、その日の大学での予定は終わっていた。声をかけたその人が「中園遥木」さんだった。周りに居る大学生たちとは違う「落ち着いた雰囲気の大人」であり、ルックスの良い彼を見ている女子もあたりには居た。
「絵のモデル?」
 声をかけられた私は少し戸惑う。
「そう。俺はフリーの画家でここでモデルを探していたんだ」
「どうして私なんですか?」
 私は少し警戒した。何の繋がりもないところから出てきた誘いには「十分に気を付けなさい」と教わった。女性なら男性の誘いに特に注意しろと。
「君が一際、魅力的に映ったからだよ」
「新手のナンパですか?」
 遥木さんは「困ったな」と苦笑いを浮かべた。
「本当に画家として活動しているんだよ。名刺を渡そうか?」
 彼はそう言って名刺を取り出して私に渡した。
 もらった名刺の名前をスマホで調べてみると、確かに画家なようだ。個展も開いている。そこに描かれている絵画も綺麗なものだ。
「もう一度聞きますが、どうして私なんですか?」
「君の瞳に「炎」が宿っているような気がしたんだ。俺は、君に命があると感じた。俺にしか分からない魅力かもしれない。でも、俺が求めていたのは君だと、さっき分かったんだ。君がいい。バイト代も払わせてもらうよ」
 そう言われて悪い気はしなかった。

〈知性的な第一印象だったけれど、情熱的だ〉
 彼は私の瞳に「炎」が宿っているような気がしたと言った。けれど、むしろ炎を宿しているのは彼の方だと感じていた。若さや野望、そういうものがあるのか瞳の奥に燃えるような「魂」を感じる。
〈それにバイト代か。素直にお金は欲しいな〉
 この頃、不景気の煽りを食らって余裕のない生活だったこと。それと、絵のモデルなんて経験が出来るのはこの先、二度とないかもしれない。どんなものか、一度経験してみるのも悪くないかもしれないなと思った。
「少しでもおかしいことをしたら、警察を呼びますかね?」
「そんなことはしないよ」
 結局、少し興味があったことや、生活費が苦しいことから絵のモデルを引き受けることにした。一緒に歩きながら考えて「はっ」とする。
「ま、まさか? ヌードモデルだったりします?」
「違うよ。今日はこの大学でモデルを探して描くと決めていたから、この大学の3号館の講義室を借りておいた。君も少しは安心だろう?」

 * * * * *

 3号館のあまり使われていない講義室にて。何もない室内。その無機質な講義室で彼が「座ってくれ」と言った椅子に同じ姿勢で座っている。特におかしなことのない普通のポーズでも、ずっと座っていることは少し疲れた。
 それを和らげるためなのか彼は私に話しかけてくる。
「こういう無機質な場所より、君に似合う場所がよかったけれどね」
「私に似合うって、例えばどんな場所ですか?」
「そうだね。もっと景色が良くて、良い風が通るような部屋だったらと思うよ。君の魅力がより鮮明になると思っているんだ」
 私はそう言っている彼を見た。
〈画家というものはよく分からないんだよね〉
 絵を「何のため」に描くのか。
 そう思っていると、彼が描きながら私に話しかけてくる。
「少し会話しようよ。君の背景を知れたら絵に良い影響が与えられるかもしれないなと思ったんだ。君は何か少し常人と違う雰囲気を持っていると思うんだけど、何かやっていた? あるいは今も何かやっているの?」
 その質問に、私も姿勢を動かさずに答える。
「射撃です。射撃をやっていました」
「射撃? って銃の?」
 この話をすると大抵の人は彼のように驚く。
「おじいちゃんが元警官で。それで私も「警官になりたい」と言ったら射撃へ通わせてくれて。それで高校までは射撃をやっていました」
「凄いね。でも、警官になりたいなら警察学校に行かなかったの?」
「「人を撃てるのか?」とおじいちゃんに聞かれたんです。誰かを守るために、誰かを殺す意思を持てるのか? と聞かれたんです」
 私は静かに、当時を思い出しながら話を続ける。
「親しみや友情を持っている人が誰かに刃を向けた時に、銃口を向けて引き金を引けるのか。そう考えたら「私には出来ないのかも」って感じたんです。真面目に考えると怖くなって。今まで銃口を向けるのは「悪いやつ」って漠然と考えていたけれど、それが自分の思うような「悪人」ではないのかもしれない。もしも、それが友人だったら。そう考えた時に、私は警官にはなれないなって」
 彼は腕を止めることなく、ただ興味深く私の言葉を聞いていた。
「きっと、おじいちゃんは私が警官になることを反対してたんだと思います。射撃を習わせてくれたのは、警官にはなれない、と私に納得させるためだったんだと、今になって分かります。優しい、あるいは甘い人間が警官になっても「誰もが不幸になる」と。それで警官になることは辞めたんです」

 私の話が終わって、少しの沈黙の後。
 彼は目標まで描き終わったようで「もういいよ」と言う。
「とりあえず、これで一段落」
「もういいんですか? そんなすぐに完成するものなんですか?」
「モデルを長時間、拘束できないからね。今描いたのはクロッキーだけ。後日、写真と記憶をもとに本格的に仕上げていくよ。君の話を聞けてよかった。俺が「君が他人と少し違う」と思った理由が少し分かったような気がした」
 同じポーズで写真を取って、それで今日は終わりになる。ただ私は「完成形」が気になって「完成したら見せてもらえますか?」と彼に聞いた。
「妙な絵にされたら困るので」
「信頼されていないね。まあ、出会ったばかりだから仕方ないか。いいよ。それに君自身に見てもらいたいと思っていたんだよ。後日、完成したら必ず君に見せると約束するよ。どこに連絡すればいい?」
 私は会社説明会用に作ったメールアドレスを彼に伝えた。

 * * * * *

 一ヶ月後。再び会ったのは大学の構内の芝生。
「君の知らない場所だと、君が不安かもれないと思って」
 私はそこで、そのキャンバスに描かれた私を見る。
 彼の絵画は、確かな実力の中に「甘さ」と「幻想」を感じさせるものだった。そこに写し取られた私に「命」があるように感じられて、同時に「どこかに死が潜んでいる」と思わせるような「美しい女性」の私が描かれていた。
「どうだい? 妙な絵ではないだろう?」
 絵画に見惚れていた私は素直な気持ちを伝えた。
「素敵です。こんな絵画に残れるならモデルを引き受けて良かった」
「言っただろう? 君は俺に取って魅力的に見えていたと。だから、こんなにも美しく魅力的に描けるんだよ。あの時、あの場所で「君がいい」と言った理由が、こうして君自身にも少しでも分かってもらえたなら嬉しい」
 出来上がった肖像画を見て、少し分かったことがある。
 彼は「魔力を持った作品」を自ら作り上げられると分かった時、彼自身のその可能性に魅入られたのだろうということ。それが彼の瞳の奥に宿った「情熱」なのだろうと。私も、彼と、彼の絵画を見ていたいと思った。
「また会えるかな? 君さえよければまた君を描きたい」
「私もあなたのことが気になっています」
「改めて自己紹介するよ。名刺に書かれていたように俺は「中園遥木」だよ。名前を教えてくれないか? 君から俺に」
「五十嵐舞です。よろしくお願いします」

 差し出した私の手を、彼はぎゅっと握って「ああ、こちらこそよろしくお願いするよ」と微笑む。その彼の顔を見ると〈改めて見てみると素敵な大人の男性だ〉と意識して、私は何だか恥ずかしくなって顔を逸す。