あれから。私は「日々の中」へ。
平日の夜。東京のオフィスの中。
日常は特に変わらず。スーツ姿で仕事に追われる日々を繰り返す。私は係長の席へ行く。係長は40代の男性で毎日のように夜9時頃まで残業をしている妻帯者。初めは怖いと感じていたけれど、子供のことを話したり「良いお父さん」の一面を見て、怖い人ではないと知った。
私は以前に作成を頼まれた書類が作成出来たことを報告する。
「係長。この前の書類が出来ましたがどうすればよいでしょうか?」
「お疲れ様。チェックは明日の朝にするよ。じゃあ今日はもうこれで上がっちゃって。また来月から忙しくなるから、帰れる時には帰ろうよ。それと寒くなってきたから体調管理はしっかりしてね。来月、忙しい時に休まないでね」
「はい。気を付けます。ではお先に上がらせてもらいます」
夜の7時。パソコンの電源を消してコートを羽織って鞄を持って席を立つ。
係長に「お先に失礼します」と挨拶をして、オフィスを後にして。エレベーターに乗って、ビルを出る。そして一人であることを確認してため息が吐いた。
「来月、忙しいのか。嫌だな」
立ち止まっていると真冬のビル風が吹く。
「くわー。身に染みるように寒い!」
冬も本番。コートにマフラーでも寒さを強く感じる。
「都会はやっぱり厳しいな。人もそうだし、無機質なビルのオフィス街も、夏は暑いし冬は寒いしで厳しい。そのうちに田舎に戻ろうかな。でも、何もないのに田舎に戻るのも負けた感じがして嫌なんだよな。あの町も狭いから人の噂が娯楽みたいで「都会で通用しなかったのよ」とか色々言われるのは分かっているから」
そう愚痴を言いながら歩き出す。
ふと、思ってしまうことを口に出していた。
「また、月夜城が現れてくれないかな」
正宗が聞いたら怒りそうだけど。少し期待して、夜空を見上げるも、今宵は雲がかかって月が見えない。目の前に幻想が現れたのは、あの日の夜だけ。
* * * * *
「あの夜のこと」は、月夜城の出来事は「全てが夢だったのでは?」と思う時もある。あれが「現実だったことを証明する物」は何もなかったから。
だけど、夢でないことを私は知っている。あの時のことを忘れずに覚えている。あの時、遥木さんは「君を愛していると言ったんだ」と言ってくれた。その言葉を聞いた時、止まってしまっていた私の心は、時計の針は再び動き出した。
ずっと遥木さんの死に囚われて、感動も、喜びも、自分のものに思えなかった心が、あの言葉で元に戻った。元に戻ってみると、感動も、喜びも、悲しみも、自分のものだと分かる。日常の中で心が動くことが感じられた。
これが正常だったんだと思い出した。
あの日。月夜城に行ってから変わったのは「私」だった。
前は、この世界を飛び去ってしまいたい気持ちが強くて、自分でも「危ないな」と感じていた。現実から心が離れて、ふっと、何かの拍子に地からこの足が地面から離れるのではと自分でも感じていた。
でも、あの日。正宗の言葉を聞いて。私は、他の誰かに愛されて今があるということを知った。それで「自暴自棄にならないように」と思うようになった。
祖父母もそうだし、記憶にない母と、正宗も。自分に「祈り」が向けられていることに初めて気付いた。それを感じ取ったことで「自分のことを少しは大事にしてみようか」と「地面に足を付けていよう」と考えた。
* * * * *
最寄り駅に着いたのは夜の7時前のこと。
雲は晴れて、夜空に蒼く美しい1月の月が浮かんでいた。
「もう二度と「月夜城」は現れないのかな?」
そんな言葉を思わず呟く。まだ心はしばらく「月夜城」のことを考えてしまうだろう。あれほどの幻想と甘い記憶を、そんな簡単に忘れられそうにないというだけのこと。あの瞬間を私は忘れられず、愛しく、甘い記憶を得た。
「彼が亡くなったことも。彼の気持ちも伝わった」
私は、それで終わりにして「次へ」歩んでいかなければならない。
〈でも〉と、私は歩みを一度止めた。
〈今でも覚えているよ〉
あなたに愛されたことを。
〈そして、彼の言葉を今でも思い出せる〉
囚われていた心も戻ってきても、彼への想いは消えずに残っている。
〈もしも、もう一度、私の目の前にあなたが現れたなら。私を愛してくれたあなたが、私をまだ愛してくれて私を攫っていくと言ったならば。その時は、私は何もかもを捨てて、あなたのもとへ行ってしまうのだろう〉
厭世でも、自暴自棄でもなく。
あの甘い恋が、本当の恋であることを知った。
全てを知ってもまだ、心は甘くシュガーな恋に心が惹かれている。二人がたどり着く場所がどこでもよくて。あなたをもう一度感じたい。あなたの指が私に触れてくれるだけで、体も心もあなたに溶けてしまうだろう。
『Sugar Ballad』END
平日の夜。東京のオフィスの中。
日常は特に変わらず。スーツ姿で仕事に追われる日々を繰り返す。私は係長の席へ行く。係長は40代の男性で毎日のように夜9時頃まで残業をしている妻帯者。初めは怖いと感じていたけれど、子供のことを話したり「良いお父さん」の一面を見て、怖い人ではないと知った。
私は以前に作成を頼まれた書類が作成出来たことを報告する。
「係長。この前の書類が出来ましたがどうすればよいでしょうか?」
「お疲れ様。チェックは明日の朝にするよ。じゃあ今日はもうこれで上がっちゃって。また来月から忙しくなるから、帰れる時には帰ろうよ。それと寒くなってきたから体調管理はしっかりしてね。来月、忙しい時に休まないでね」
「はい。気を付けます。ではお先に上がらせてもらいます」
夜の7時。パソコンの電源を消してコートを羽織って鞄を持って席を立つ。
係長に「お先に失礼します」と挨拶をして、オフィスを後にして。エレベーターに乗って、ビルを出る。そして一人であることを確認してため息が吐いた。
「来月、忙しいのか。嫌だな」
立ち止まっていると真冬のビル風が吹く。
「くわー。身に染みるように寒い!」
冬も本番。コートにマフラーでも寒さを強く感じる。
「都会はやっぱり厳しいな。人もそうだし、無機質なビルのオフィス街も、夏は暑いし冬は寒いしで厳しい。そのうちに田舎に戻ろうかな。でも、何もないのに田舎に戻るのも負けた感じがして嫌なんだよな。あの町も狭いから人の噂が娯楽みたいで「都会で通用しなかったのよ」とか色々言われるのは分かっているから」
そう愚痴を言いながら歩き出す。
ふと、思ってしまうことを口に出していた。
「また、月夜城が現れてくれないかな」
正宗が聞いたら怒りそうだけど。少し期待して、夜空を見上げるも、今宵は雲がかかって月が見えない。目の前に幻想が現れたのは、あの日の夜だけ。
* * * * *
「あの夜のこと」は、月夜城の出来事は「全てが夢だったのでは?」と思う時もある。あれが「現実だったことを証明する物」は何もなかったから。
だけど、夢でないことを私は知っている。あの時のことを忘れずに覚えている。あの時、遥木さんは「君を愛していると言ったんだ」と言ってくれた。その言葉を聞いた時、止まってしまっていた私の心は、時計の針は再び動き出した。
ずっと遥木さんの死に囚われて、感動も、喜びも、自分のものに思えなかった心が、あの言葉で元に戻った。元に戻ってみると、感動も、喜びも、悲しみも、自分のものだと分かる。日常の中で心が動くことが感じられた。
これが正常だったんだと思い出した。
あの日。月夜城に行ってから変わったのは「私」だった。
前は、この世界を飛び去ってしまいたい気持ちが強くて、自分でも「危ないな」と感じていた。現実から心が離れて、ふっと、何かの拍子に地からこの足が地面から離れるのではと自分でも感じていた。
でも、あの日。正宗の言葉を聞いて。私は、他の誰かに愛されて今があるということを知った。それで「自暴自棄にならないように」と思うようになった。
祖父母もそうだし、記憶にない母と、正宗も。自分に「祈り」が向けられていることに初めて気付いた。それを感じ取ったことで「自分のことを少しは大事にしてみようか」と「地面に足を付けていよう」と考えた。
* * * * *
最寄り駅に着いたのは夜の7時前のこと。
雲は晴れて、夜空に蒼く美しい1月の月が浮かんでいた。
「もう二度と「月夜城」は現れないのかな?」
そんな言葉を思わず呟く。まだ心はしばらく「月夜城」のことを考えてしまうだろう。あれほどの幻想と甘い記憶を、そんな簡単に忘れられそうにないというだけのこと。あの瞬間を私は忘れられず、愛しく、甘い記憶を得た。
「彼が亡くなったことも。彼の気持ちも伝わった」
私は、それで終わりにして「次へ」歩んでいかなければならない。
〈でも〉と、私は歩みを一度止めた。
〈今でも覚えているよ〉
あなたに愛されたことを。
〈そして、彼の言葉を今でも思い出せる〉
囚われていた心も戻ってきても、彼への想いは消えずに残っている。
〈もしも、もう一度、私の目の前にあなたが現れたなら。私を愛してくれたあなたが、私をまだ愛してくれて私を攫っていくと言ったならば。その時は、私は何もかもを捨てて、あなたのもとへ行ってしまうのだろう〉
厭世でも、自暴自棄でもなく。
あの甘い恋が、本当の恋であることを知った。
全てを知ってもまだ、心は甘くシュガーな恋に心が惹かれている。二人がたどり着く場所がどこでもよくて。あなたをもう一度感じたい。あなたの指が私に触れてくれるだけで、体も心もあなたに溶けてしまうだろう。
『Sugar Ballad』END
