Sugar Ballad

「あの日のアトリエ」の中に私は立っている。
 淡い光の差し込む、海辺の部屋。私の他に誰も居ない。部屋の中をしばらく眺めていた。画材が置かれていて、生活感はほとんどなかった。真っ白なシーツのベッドがあるが、ベッドが使われているようには見えなかった。
 机の上の文庫本には白詰草の「栞」が挟まれている。
 窓辺の花瓶に差された青い花が風で揺れている。窓の向こう、遠くに見える海から聞こえる波の音が、この部屋の中の静けさを美しく感じさせた。

「私。どうしてここに居るんだろう?」
 アトリエの中に立っている私は、記憶が曖昧になっていた。思い出そうとしても何も思い出せない夢の中に迷い込んだような。ここがどこだったのか。そして自分が何故ここに居るのか、自分が何者だったのか。
「何かを忘れているような気がする。とても大切なこと」
 一人。アトリエの中に誰の姿は見えない。
〈愛しい人のことだったような気がする〉
 でも、それが誰だったのかが思い出せずに途方に暮れる。静寂の中で感じたのは「孤独」で、大切な人の記憶を亡くしてしまったような寂しさ。哀しさ。
 一人。しばらく部屋の中に立ち尽くした後で、私は部屋に置かれている画材のもとへと歩く。他に何も見つけられなかったからだ。
〈あのキャンバスに何が描かれているんだろう?〉
 部屋の中。その「キャンバス」が気になった。素足で床を歩いて、キャンバスがある場所まで行って「そのキャンバス」を覗き込んだ。
 そこに「私」が描かれていた。
〈そうだ。これがあの時の私だった〉
 絵画の中の私が、そこに籠もっていた「魂」が私の体の中に戻ってくる。
 そして、忘れていたこと全てを思い出す。私は彼がここに居て、ここが「二人のアトリエ」だったこと。過ごした日々、愛しかった日々の全ての想いを。そして、これを描いた「彼」を、遥木さんを思い出す。
「そうだ。私は遥木さんの気持ちを知るためにここへ来たんだ。あの最後の雨の日。遥木さんが何を言ったのかを知りたくて」

 私は虚空へ、部屋の中へ話しかける。
「遥木さん。どこに居るの?」
 自分の声が部屋の中に響き、声は返ってこなくて静寂だった。
「会いたい。会いたくてここへ来たよ」
 言っているうちに涙が滲む。
「一人は悲しい。声が聞きたいよ」
 彼が居ないことで悲しくて、涙を零した時。後ろに気配を感じると同時に、涙を零した私を優しくその腕で抱きしめる。
『舞。俺はここに居るよ』
 その腕が後ろから私を包容する。
『あの時。あの雨の中で、俺は「君を愛している」と言ったんだ』
 そう確かに耳元で遥木さんの声が聞こえた。
「このアトリエは、俺にとっての「エデン」だったんだと、後から分かった。探していたエデンを記憶の中に見つけ出したんだ。俺はもう生きてはいないけれど、心はこの夢の中に在る。舞があのまま去らずに、月夜城へと戻って、俺に会いに来てくれたことが嬉しいよ。ありがとう。舞」

 私が振り向いた時、既に遥木さんの姿はなかった。
 それでも「心」がこの瞬間に再び動き出していた。私に伝わってきた気持ちは、私が遥木さんを想うように、私のことを想っていてくれていた「遥木さんの愛」だった。私は一人、胸に手を当てて呟いていた。
「覚えています。あなたが私を愛してくれたこと」
 二人のアトリエは、夜が明けるように淡くなって消えていく。
 私は「どこかで目を閉じていること」に気付く。夢の終わりに意識が戻っていく感覚を感じている。別の誰かの声が聞こえていた。

 * * * * *

『舞。俺の声が聞こえていたら返事をしてくれ』
 ふと、意識が戻ると早朝の東京の公園だ。月夜城はどこにもなかった。私は公園のベンチに横になっていた。私の体に「銀色の光のヴェール」がかけられていて、そのヴェールに守られているのか、冬なのに寒くなかった。
「気が付いたか? 舞」
「うん。起きたよ。正宗」
 東京の朝焼けの中。人も見える。歩いている人たちは、どうやら私と正宗のことが見えていないようだった。それもおそらくこの銀色の光のヴェールの効果か、あるいは正宗が何かをしたのだろう。
「お前が無事なようでほっとしたよ」
 正宗が安堵したように息を吐いた。
「俺がお前のことを守っていることは覚えておいてもらえれば、俺も多少は報われるよ。でも、まずは家に無事に帰って眠ることだな。月夜城に一晩居たわけだからな。幸い、今日は土曜日だ。今日と明日はゆっくりと休むことだ」
 正宗はその手でそっと私に「目隠し」をする。
「ほら。もう家に着いたよ」
 正宗が目隠しを外すとアパートの自室だった。
「疲れているはずだ。何も考えずにまた眠った方がいい。一応、危険がないように起きるまでは俺が舞を守る。お前は覚えていないだろうけれど、お前が赤子の時に、お前が眠るのを見守っていたように。そうさせてくれ」

「おやすみ。舞」という正宗の声が聞こえると、逆らえないような眠気を感じた。私は起きていられずに上着を脱いでベッドに横になる。遥木さんと正宗。二人に会えて、その日、ずっと忘れていた「安心」の中で私は眠る。 
〈失っていた心が、この体に戻っていることを感じる〉
 何より、遥木さんの「愛している」という言葉を聞いたこの心は、穏やかに凪いだ。もう悲しくなくて、満たされた想いがこの胸にあった。