Sugar Ballad

 不意に意識が戻ると月夜城の中に立っている。
 赤いペルシャ絨毯の床、階段の前。遥木さんが私をそっと支えるように私の腰に手を回している。私も嫌がることなく彼に身を預けていた。
「思い出してくれた? 舞」
 遥木さんに「忘れることなんて出来ないです」と答えた。
「今でも全部覚えています。遥木さんと一緒に居た時間、その世界と、あなたを。何一つ忘れてなんかいません。私は戻れるのならあの日々の中で生きていたい」
「ああ。俺も同じだ。あの愛しい日々に心がある」
 遥木さんがそう言うと、今までの「二人の記憶」がキャンドルライトが灯るように優しく浮かび上がってくる。無数の甘く優しい記憶の灯りが二人の周りに灯っていた。その灯りを見ていると、あの日々を思い出して感情が溢れてくる。
「遥木さん。本当に遥木さんなんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「昨日。遥木さんの夢を見て泣いたんですよ」
 自分の泣きそうなかすれた声。
 心が彼を切望していることが分かった。
「寂しくて悲しい思いをさせてごめん。あの時、俺の心は真昼の太陽に耐えられないくらい、絶望が心を支配してしまったんだ。君を失って」
 遥木さんのその手が私の頬に触れる。
「舞。俺はもう舞を離したくないんだ」
「私も、遥木さんと一緒に居たいです。あれから、他人は「違う人を探せばいい」と言ったけれど、私には出来なかったんです」

 どうしても忘れられない恋が、痛みが、心に押し寄せる。
 あなたを失って泣いた夜もある。今は生活があるけれど、心はあの時に置いてきてしまった。何の感動もなく日々がただ続いていくだけの生活。
 許されるのなら、あなたを追いかけていたかった。あなたが亡くなって、一人になって、他の誰も愛せないことに気付いた。グラスに入れられた透明な水のように、一度落としたなら戻せないことを知った。今、幻想の中だとしても遥木さんが目の前に居る。それが何より嬉しいのは彼を求めているからだ。
 遥木さんは私の手を取る。
「ここに一緒に居よう。舞」
 私は「ここに?」と聞き返す。
「ああ。舞が望むのならここに二人で居よう。ただ、東京には二度と戻れなくなる。それでもいいのならここに共に留まろう」
 一瞬、東京の生活に未練があるかと考える。
〈東京の生活は厳しく残酷だ〉
 会社員の日々に特別な思い入れがあるわけでもない。私は、夢に遥木さんが出てきた日は涙を零すくらいに、今も遥木さんのことを想っている。それでも、二度と現実に戻れないと考えると少しの戸惑いがある。そして「今のうちに、何か聞いておきたいことがあるだろうか?」と考えると、聞きたいことが一つある。
「決める前に。一つ教えてもらいたいことがあります」
 遥木さんが「いいけれど、何を?」と私に聞き返す。
「あの時。遥木さんが何を言ったのかを」
「あの時?」
「最期に会った日。雨の公園で、あなたが私に何かを言ったのを覚えています。でも、雨音でそれが聞き取れなかった。その言葉を教えてください。あの時。長く続く雨の中。雨音にかき消された「言葉」を。さよならの前に遥木さんが私に伝えた言葉を。あの時、遥木さんが何を言ったのか、それが、今も心の中で「解けぬ問い」になってしまっているんです。今、それが知りたいんです」
 その言葉を聞いた遥木さんは初めて戸惑いを見せた。
「そうか。あの時、俺の言葉は舞に聞こえていなかったんだね」
 悲しそうな。でも、何かを理解したようなその表情が意外だった。遥木さんは「聞こえていたと思っていた」と言った。

『盛り上がっているところ悪いが、邪魔するぜ』
 この場に正宗が現れる。銀の光のヴェールと、揺れる白銀の光の九尾。その表情は前より険しく、厳しい視線で遥木さんを睨んでいた。
「その子を返してもらう。月読。黄泉の国の実力者かもしれないが、現実に生きる人物を勝手に攫うのはお門違いってものだ」
 遥木さんも正宗を睨んだ。
「お前は何故、舞にそこまで拘る? 何故、舞の守護者を名乗る?」
 私も正宗に聞きたかった。
「私も知りたいよ。どうしてなの? 教えて、正宗」
 正宗がどうして私にここまで拘るのか。
 私の家は特別な家柄でもない。正宗に心当たりもない。それが「守護者」だと聞かされても多くの謎が残っている。母と関係があったと聞いたけれど、それだけでは分からない。私は母の記憶を持っていないのだから。
「ああ。ここまで来たのなら全てを話そう」
 正宗は静かに語りだす。
「もともとは、俺はある神社に住んでいた」
 昔を思い返すように、正宗は厳しい表情のまま話を続ける。
「神社の「神」として祀られてその土地を守っていたのは昔の話だ。だが、時代と共に人は信仰を失って、神社に訪れる者も居なくなった。俺も「時代が変わった」と考えるようになって、神社で詰まらぬ日々を過ごしていた」
 正宗は少し表情を和らげた。
「それでも、一人の少女が神社にやって来るようになった」