Sugar Ballad

〈雨を覚えている〉
 4月の春の雨にずぶ濡れになったことを。そして、最期に遥木さんを見た。あなたの前から私が走り去ったことも。いつも、いつまでも二人で過ごせると思っていた夢が、その日に崩れたことも。
〈思い出す。いつまでも繰り返し、この日を〉

 * * * * *

 4月。自室にて、夜7時になろうかという時刻。
 スマホに着信かメッセージが来た。スマホを確認すると遥木さんからのメッセージで「会いたい」と書かれていた。その文字に思わず「甘えたい気分なのかな?」と少しニヤついてから「じゃあ会いましょう」と返信した。
「でも、今から準備するから1時間後くらいになるけれど、大丈夫ですか?」とメッセージを送っても「会いたい」と返事。遥木さんに何かあったのだろうか? そう不安に感じながらも、会って直接聞くべきだろうと思った。
〈では、1時間後に駅前の公園で〉
 そうメッセージを送って着替えながら考える。
〈でも、急にどうしたんだろう?〉
 そう考えていると、パラパラと雨音が僅かに聞こえてきた。着替えて、傘を持って、私がアパートを出る。雨がそこそこ降っていた。持って出たビニール傘を差して歩き、駅前の公園にたどり着くまでにその雨は強まった。
〈結構降ってきた。屋内で待ち合わせした方がよかったな〉
 駅前の公園。雨の中、縁が綺麗な柄で装飾された紺色の傘を差してうつむいて立っている遥木さんを見つける。私が「お待たせしました」と伝えると彼は顔を上げた。その表情は元気がないような、悲しいというような、いつもと違うことは分かる。

 雨の公園。他に人は見えない。
「どうしたんですか? 急に会いたいなんて」
 なるべく穏やかに優しく問いかけるように彼に聞く。
「言葉通りだよ。ただ、会いたくなったんだ」
「嬉しいです。でも、どうしてですか? 何かあったんですか? 私、どんな内容でも聞きます。だって私と遥木さんは恋人同士なんですから」
 次の瞬間。遥木さんは手に持っていた傘を投げ捨てて、両手で私を抱きしめる。私も驚いて思わず傘を落とし、濡れた地面に二つの傘が転がる。

「遥木さん。何かあるんですよね?」
 一つ、分かることがある。遥木さんは「何か」に追い詰められているということ。
「聞かせてください。何があなたを追い詰めているんですか? あなたを苦しめるものの正体が知りたい。恋人の苦悩を見てみないフリは私は出来ない」
 遥木さんに伝える。その時まで「どんなことだって二人で乗り越えられる」と思っていた。はずだったのに。遥木さんの言葉でそれが揺らぐ。
「もうすぐ「終わり」なんだ」
 言葉の意味が分からなかったけれど、彼の次の言葉を待った。しばらく彼は黙って私を抱きしめていた。けれど、その力を緩めると静かに話していく。
「俺は「限られた時間だけ」画家として挑戦が出来る約束があったんだ。25歳まで。そこまでで「中園家の名誉になるような結果」を出さないと、画家は終わりにするという。そして親の決めた相手を結婚をして、会社の一つを受け継ぎ、中東へ行かなければならない。それはもう既に決められている」
 初めて知った事実に私は驚き、言葉が見つからなかった。
 遥木さんは言葉を続けていく。その言葉が、重い。
「夢はここまでなのか。今までの心は、砂のようにこの指からすり抜けてしまうのだろうか? その時、俺はどうなるんだろうか? 探していた「エデン」に羽ばたいていく「羽根」がないと分かったがないと分かった後。それでも人生が続いていくことが怖いんだ。君の居ない人生が」

「遥木さん。そうだったんですか」
 彼の本音と弱さを初めて見た。
「驚かせてごめん。でも、舞には知ってもらいたかった。そうでないと、俺は隠し事をしたまま、舞の前から居なくなることになる。その時、この愛は本物だとさえ言えなくなりそうで、舞に伝えようと思ったんだ」
 雨音の中、遥木さんはそう言って私を強く抱きしめる。
 私は何を言えばいいのか分からず、立ち尽くしたままだった。
〈あなたのために何が言えるだろう?〉
 地面に落ちている二つの傘が目に入る。一つは、安いビニール製で、もう一つは高級な傘。それを見た時に、急に夢から現実に引き戻される感覚があって「住むべき世界は違うんじゃないかな」と思ってしまった。
 聞こえていたのは、雨音と、濡れたアスファルトの上を走る車のタイヤの音。
「舞。俺は君と離れたくない」
 公園に入ってきた人は「何事だろう?」と私たちをちらっと見て、それでも立ち止まることなく、傘を差して歩いていた。遥木さんはしばらく黙ったまま動かなかった。私は雨で濡れて、冷たさの中で呆然としながら考えていた。
〈あなたのために私は何が出来るだろう?〉
 彼に抱きしめられながら私は思う。
〈でも、別れることくらいしか出来ないな〉
 涙よりも先に諦めの笑みが自然と口元に浮かんでいた。

「遥木さん「さよなら」しましょう」
 私のその言葉に、遥木さんは私の肩を掴み私の顔を見る。
「舞。どうしてそんなことを言うんだ?」
 その眼差しは、見たこともないようなもの。嫌だと否定するような、そして深い悲しみや戸惑いの混ざった色。でも、私は彼に優しく告げる。
「私のことは気にしないで。私は、一人でも生きていくから」
 その時「遥木さんが何かを言った」ことは分かった。
 けれど、その言葉が何だったのかは雨音にかき消されて分からなかった。私も聞き返すことも出来ず。ただ、自分のことで彼をこれ以上苦しめてはいけないと思っていた。この時、二人、想いがすれ違っているとも知らずに。
「私のことは忘れて。そして、遥木さんは、遥木さんの幸せのために生きて。あなたが愛してくれたことを私は忘れないから」
 そこで私も悲しくなってしまって、泣きそうなこの顔を見せたくなくて、彼のもとから走り去る。雨の街を、ただ走って彼のもとから居なくなる。そうすることが正しいのだと、本当の気持ちと真逆のことをする。
 本当はあなたのことが好きなのに。
 そして、その一ヶ月後に遥木さんの訃報を聞いた。

 * * * * *

 今も思い出す。あの雨の日、聞き取れなかった言葉が何だったのかを。あの時、あなたは何を私に伝えたのだろう? それがずっと心に引っかかったままで、心が現実ではなく、過去にあるような感覚がずっとしている。
 本当を言えば、あなただけを求めていたのに。何故、あの時、自分の心に嘘をつき、その手を離してしまったのだろうか?
 雨の中で、二人、探していたものを見失って。