海辺の小さな「アトリエ」に二人で居る。
遥木さんは画家で、私は大学生だ。
部屋の中に生活感はほとんどなく、椅子と机と、ベッドと画材。それと窓辺に花瓶と青い花。フローリングは素足で歩くと冷たい。透明なグラスに注がれた綺麗な水道水を、それが少し涼しげに感じる5月中旬。
ここは静かで平和だ。遠くで波の音が聞こえる。
あの騒がしい東京からこのアトリエに来ると、夢のよう。美して、愛おしくて、いつの日か「あれは夢だったのかな」と思ってしまうかもしれないほどに。あるいは、東京の生活が夢でここで目が覚めているのかもしれないと思うほど。
花瓶に飾られた青い花が風で揺れた。
来る日も、遥木さんは私を描く。
〈いつも私を描いて楽しいのだろうか?〉
私は、私は私を「特別なことがない」と感じているのに。
一瞬、そう思ったけれど。キャンバスに向かっている時の遥木さんは真剣そのもので、それが答えなのだろうと分かった。こんなに私のことを真剣に見て、写し取ってくれる人が居ると感じる時、心は満たされる。
私が「この人の特別」だとはっきりと分かるから。
絵のモデルをしている時、会話のない時間も多い。
同じ姿勢で座っていることもそれほど苦ではないのは、完成した彼の絵を見たいと思っているから。遥木さんの目に私がどう映っているのかが分かる時。その時、自分でも知らないような自分の表情や仕草、雰囲気というものを知る。それを遥木さんがその目で見て絵として残してくれていることに感動する。
そして、私も遥木さんの知らない遥木さんを知っている。そのキャンバスに向かっている時の真剣な表情、眼差し。私も忘れないように、彼を心に焼き付けようと、私も絵のモデルをしている時、彼を見つめ続けていた。
私は愛している恋人と向かい合うことに苦しみは感じなかった。
〈私も、このアトリエが好きだ〉
この時このアトリエは二人の「夢」なんだろうと分かっていた。
今、二人が追い求める同じ夢の中に居る。その夢は終わってしまう時が来るのだろうか? 未来に、あなたと私はこの部屋に居るだろうか? それとも二人は離れ離れになっているのだろうか? 二人の夢の結末はどのようなものだろうか?
もしも、一人なら。悲しくて泣いてしまうかも。
* * * * *
二人は休憩に入り、静かなアトリエで会話をする。
「画家には特別なモデルが居るんだ」
遥木さんはそう言った。
「特別なモデルですか?」
「そう。お金のためではなく、その人を描きたいと、ずっと心に写していたいと思う人がね。画家として、人間として「情熱を向けられるモデル」のことだよ。有名な画家と特別なモデルはよくセットで語られるものだよ。ロートレックやエゴン・シーレとその絵のモデルなんかのようにね。その二人には「物語」が宿っていると人は感じるんだ。俺にとって、その「特別なモデル」は舞なんだと思うんだよ」
白いカップ、ホットココアを飲みながら私は遥木さんに話す。
「でも画家って凄いですよね。素晴らしい作品を自らの手で作り出すことが出来る。私にはそれは出来ないから特別な才能と技術なんだなって、いつも思います」
遥木さんの表情にふっと哀しげになる。
「画家の作品に何かが宿っていても、画家の人生は中身がないんじゃないかな。俺にはそう思う時が確かにあるんだよ」
「遥木さんには中身はありますよ」
さっきまで私が見ていた遥木さんのことを伝えたかった。
キャンバスに向かって真剣な眼差しで絵を描いていた遥木さんの目に宿った「意思」は、遥木さんが空っぽではないことを示していた。けれど、上手く言葉に出来ずに。遥木さんのようにキャンバスに描けたらと思った。
私の言葉に遥木さんは「ありがとう」と優しく微笑んだ。
「でもね、時々、それでも分からなくなっていくんだ。絵画を描いている間に時間が過ぎ去っていて、ふと顔を上げた時に世界が変わっていて「俺は何かを成し遂げたのだろうか?」と思ってしまう時がある。それはまるで逢魔が時のようで、その時に「化け物のような感情」が心を過ぎるんだ」
私は遥木さんの話を黙って聞いていた。
「そして、自分が分からなくなっていく。でも、舞はきっと本当の俺のことを見て覚えていてくれる。そう感じる。さっきも俺のことを見てくれていた。ただ絵画のために全てをかけている俺のことをね。案外、そういうことなのかもしれない。見て欲しい人に自分のことを見てもらうことが純粋に嬉しいんだと思う。子供のように」
遥木さんが私に近づいてきて軽いキスをした。
「いつか、記憶の中に俺を見つけて」
〈遥木さんとの愛はプラトニックだ〉
二人の間にある愛や心は澄んでいるような感覚がある。お互いに求め合っているけれど、それは欲望のように汚れていない、愛しい気持ち。
「俺は探している。自分が生まれた意味が分かる場所を。それはきっと人によって名前が違う場所。俺はそう思った時に「エデン」と呼んでいた。大人になった俺はそのエデンを手にすることが出来るのかな?」
「私は、今のままでも幸せだけど。この夢の中にずっと二人で居ることは出来ないの? 遥木さんは何かに追われているの?」
「……ああ。俺には決められた時間があるんだよ」
それ以上の詳細は話したくないのか、その内容は伏せたままだった。その時の遥木さんの表情は、前に中園家やコーポレーションの話をした時と同じような表情で、私は「中園家と遥木さんは何かあるのでは?」と察した。
時折。遥木さんが遠くに居るように思える。
〈もっと側に居たい。その心が全て分かるくらいに〉
手を伸ばせば、お互いの頬に手が届く距離に居たいと思う。
遥木さんは画家で、私は大学生だ。
部屋の中に生活感はほとんどなく、椅子と机と、ベッドと画材。それと窓辺に花瓶と青い花。フローリングは素足で歩くと冷たい。透明なグラスに注がれた綺麗な水道水を、それが少し涼しげに感じる5月中旬。
ここは静かで平和だ。遠くで波の音が聞こえる。
あの騒がしい東京からこのアトリエに来ると、夢のよう。美して、愛おしくて、いつの日か「あれは夢だったのかな」と思ってしまうかもしれないほどに。あるいは、東京の生活が夢でここで目が覚めているのかもしれないと思うほど。
花瓶に飾られた青い花が風で揺れた。
来る日も、遥木さんは私を描く。
〈いつも私を描いて楽しいのだろうか?〉
私は、私は私を「特別なことがない」と感じているのに。
一瞬、そう思ったけれど。キャンバスに向かっている時の遥木さんは真剣そのもので、それが答えなのだろうと分かった。こんなに私のことを真剣に見て、写し取ってくれる人が居ると感じる時、心は満たされる。
私が「この人の特別」だとはっきりと分かるから。
絵のモデルをしている時、会話のない時間も多い。
同じ姿勢で座っていることもそれほど苦ではないのは、完成した彼の絵を見たいと思っているから。遥木さんの目に私がどう映っているのかが分かる時。その時、自分でも知らないような自分の表情や仕草、雰囲気というものを知る。それを遥木さんがその目で見て絵として残してくれていることに感動する。
そして、私も遥木さんの知らない遥木さんを知っている。そのキャンバスに向かっている時の真剣な表情、眼差し。私も忘れないように、彼を心に焼き付けようと、私も絵のモデルをしている時、彼を見つめ続けていた。
私は愛している恋人と向かい合うことに苦しみは感じなかった。
〈私も、このアトリエが好きだ〉
この時このアトリエは二人の「夢」なんだろうと分かっていた。
今、二人が追い求める同じ夢の中に居る。その夢は終わってしまう時が来るのだろうか? 未来に、あなたと私はこの部屋に居るだろうか? それとも二人は離れ離れになっているのだろうか? 二人の夢の結末はどのようなものだろうか?
もしも、一人なら。悲しくて泣いてしまうかも。
* * * * *
二人は休憩に入り、静かなアトリエで会話をする。
「画家には特別なモデルが居るんだ」
遥木さんはそう言った。
「特別なモデルですか?」
「そう。お金のためではなく、その人を描きたいと、ずっと心に写していたいと思う人がね。画家として、人間として「情熱を向けられるモデル」のことだよ。有名な画家と特別なモデルはよくセットで語られるものだよ。ロートレックやエゴン・シーレとその絵のモデルなんかのようにね。その二人には「物語」が宿っていると人は感じるんだ。俺にとって、その「特別なモデル」は舞なんだと思うんだよ」
白いカップ、ホットココアを飲みながら私は遥木さんに話す。
「でも画家って凄いですよね。素晴らしい作品を自らの手で作り出すことが出来る。私にはそれは出来ないから特別な才能と技術なんだなって、いつも思います」
遥木さんの表情にふっと哀しげになる。
「画家の作品に何かが宿っていても、画家の人生は中身がないんじゃないかな。俺にはそう思う時が確かにあるんだよ」
「遥木さんには中身はありますよ」
さっきまで私が見ていた遥木さんのことを伝えたかった。
キャンバスに向かって真剣な眼差しで絵を描いていた遥木さんの目に宿った「意思」は、遥木さんが空っぽではないことを示していた。けれど、上手く言葉に出来ずに。遥木さんのようにキャンバスに描けたらと思った。
私の言葉に遥木さんは「ありがとう」と優しく微笑んだ。
「でもね、時々、それでも分からなくなっていくんだ。絵画を描いている間に時間が過ぎ去っていて、ふと顔を上げた時に世界が変わっていて「俺は何かを成し遂げたのだろうか?」と思ってしまう時がある。それはまるで逢魔が時のようで、その時に「化け物のような感情」が心を過ぎるんだ」
私は遥木さんの話を黙って聞いていた。
「そして、自分が分からなくなっていく。でも、舞はきっと本当の俺のことを見て覚えていてくれる。そう感じる。さっきも俺のことを見てくれていた。ただ絵画のために全てをかけている俺のことをね。案外、そういうことなのかもしれない。見て欲しい人に自分のことを見てもらうことが純粋に嬉しいんだと思う。子供のように」
遥木さんが私に近づいてきて軽いキスをした。
「いつか、記憶の中に俺を見つけて」
〈遥木さんとの愛はプラトニックだ〉
二人の間にある愛や心は澄んでいるような感覚がある。お互いに求め合っているけれど、それは欲望のように汚れていない、愛しい気持ち。
「俺は探している。自分が生まれた意味が分かる場所を。それはきっと人によって名前が違う場所。俺はそう思った時に「エデン」と呼んでいた。大人になった俺はそのエデンを手にすることが出来るのかな?」
「私は、今のままでも幸せだけど。この夢の中にずっと二人で居ることは出来ないの? 遥木さんは何かに追われているの?」
「……ああ。俺には決められた時間があるんだよ」
それ以上の詳細は話したくないのか、その内容は伏せたままだった。その時の遥木さんの表情は、前に中園家やコーポレーションの話をした時と同じような表情で、私は「中園家と遥木さんは何かあるのでは?」と察した。
時折。遥木さんが遠くに居るように思える。
〈もっと側に居たい。その心が全て分かるくらいに〉
手を伸ばせば、お互いの頬に手が届く距離に居たいと思う。
