Sugar Ballad

 海辺の小さな部屋。その部屋が彼と私の「アトリエ」だった。
 都心から少し離れた神奈川県の海沿いにあるアパートの一室。今日のように晴れて澄んだ空気の日は、遠い海に浮かぶ貨物船も見える。
 都心の喧騒はなくて、賑わいから離れた静けさがある。耳を澄ますと車の音の向こうに微かに波の音が聞こえる。休日の昼間。春の光の差し込む海辺の部屋は、生活感が薄く、多くの画材が置かれている。真っ白なシーツのベッドの横、机の上の文庫本に「白詰草の押し花で出来た栞」が挟まれている。

 私は木製の椅子に座って「彼」を見ている。
 彼の整った黒髪は黒曜石のようで、背は高く。黒い作業着の姿の彼は、キャンバスに向かって、真剣な眼差しでコンテでキャンバスに私を描いている。本気の時の彼の目は鋭さがあってその真剣さに思わずドキッとする。
〈それが嬉しい。愛しい。私を本気で見てくれているから〉

 そんなことを思っていると、彼が手を止めた。
「お疲れ様。今日はここまでにしようか」
 彼のその言葉で私は姿勢を解く。私は椅子から立ち上がって「伸び」をする。その後、窓辺へ歩いてそこから見える青い海を見た。
「海が見える部屋は本当にいいですよね」
 私のその言葉で彼は「それはよかった」と言った。
「アトリエを借りる時に「君と二人で居る時にどんな部屋がいいかな?」と考えたんだ。その時に「海の見えるアトリエがいい」と思ってこの部屋に決めたんだ」
「私と会うためにここを借りたんですか?」
「ああ。そうだよ」
 私は嬉しいような気もした。
「それで周りはどんな反応でしたか?」
「他人に本当の理由は明かしていないよ。何か聞かれたら「芸術家の気まぐれだ」と言っておいた。本当は、君とここに居られたら素敵だろうと思っただけで決めてしまった。さっきも「ずっとここに居れたらいいのに」と思っていたんだ」
 私は嬉しかったが何故か素直になれなくて。
「芸術家として問題あるような気がします」
 そう言ったけれど、それは彼が本当の芸術家だと知っているからこその言葉で。本当は、誰よりもずっと側で見ていたいと思える。
 彼は「遥木さん」は立ち上がって、私のもとへ歩いてきてキスをする。
「俺にとって舞が何よりも優先事項なんだよ」
 私は「スキャンダルですね」と笑みで返す。
「俺は、残念だけど週刊誌に取り上げられるほど有名ではないよ。でも、そうだね。舞のためにも、二人のためにも有名にならないとね」

 その言葉に私は少し考えて呟く。
「私は有名になってほしいような。そうでないような」
「どうして? 舞は俺に有名になってほしくないの?」
 彼の寂しそうな表情に「えっとですね」と、私は本音を言う。
「もしも遥木さんがそんなに有名になったら、こうして二人で居ることも難しくなりそうだから。有名になれば嬉しいけれど、でも遥木さんとこうして居られる時間がなくなりそうで。さっき、私は「幸せ」を感じていたんです」
 私の言葉を聞いた彼は笑みを見せる。
「俺もそうだよ。確かに有名になりすぎて舞と居られなくなるのも困るな。もしも二人が一緒に居られなくなるなら、その時は舞をどこかへ連れ去ってしまおうか。でも、そんなことをしたら俺が犯罪者になってしまうね」
「ですね。でも私は遥木さんに協力しちゃいそう」
 私たちは微笑み合う。
「そうしたら私たち「共犯」ですね」

 私「五十嵐舞」と、彼「中園遥木」は恋人だった。
 この部屋は遥木さんが「アトリエ」として借りている部屋で、二人はここにやって来て、彼は私をモデルに絵を描いている。遥木さんは画家として大きな結果は出てなかったけれど、その時の私は「それでも幸せだからいい」と思っていた。
 私は、私の描かれたキャンバスを見て聞く。
「遥木さんは何枚「私」を描いたんですか? 出会ってから、私を結構な数を描いているような。遥木さんはそんなに私を描いても飽きないんですか?」
 遥木さんは好んで私を描く。出会った時から画家としての情熱を私に向けてくれることは嬉しいけれど、時折「飽きないのかな?」とも思う。
「飽きないよ。飽きることはないかな」
 遥木さんははっきりと明確に答える。
「どれだけ時が経っても「今この時」を忘れないように。心に、魂に刻むために君を描いているのかもしれない。俺が、全てを、魂と情熱を持って描きたいのは「君」なんだよ。君だけを描いていたいと思うよ」
 真っ直ぐな視線を私に向けて、私の手を取って彼は言う。
「俺の「絵画」という羽根が世界へ出れるようなものならば。二人でどこか遠くの街へ行こう。舞。まだ見ぬエデンがあると考えるよ」
 その言葉に私は笑顔で答える。
「連れて行って。その時を楽しみにしている」

「あの時」を、そう一緒に居た時間を覚えている。
 花瓶の青い花。そこにあった水の色も。永遠にこの心に刻まれている。
 遥木さんのその指で、何度も私に触れてほしいと願う。愛が感じられるから。その声で名前を呼んで欲しくて。
 どんな時も、どんな問いでも私を選んでと。
 ただ、砂時計のように「時間」は戻せなかった。留めようとしても指の間から零れてしまうものだと、その時は分からなかった。何もかもが満たされた静かで幸せな時。儚く、それこそが何よりも美しい二人のエデンだった。