太陽が真上に上るより少し前に、ロアは目を覚ました。
身体がだるい。
完全に狂った体内時計が、泥のような睡眠を求めていた。
だけど、寝ていない時よりも明らかに気分がいい。
ロアは大きく伸びをすると、部屋を出て居間に移動した。
居間には誰もいない。
――さあ、お前はどこへ行く?
そう問いかけられた気がして、図書館を選んだあの日から、見える世界が大きく変わった。
少し冷静になった今思えば、間違った方向に向かおうとしていた。
どこかでドアが開く音がして、足音が近づいてきた。
ロアは入り口のドアを見た。
「おはよう、ロア」
「……ルイス」
ルイスは居間に入るとロアのすぐそばで立ち止まった。
沈黙の間、ロアは胸の奥でなにかがきしんでいる気がした。
ルイスとは、二度目の人生で将来結婚を誓い合った仲だ。
夜にシェルと出かけていたことを、ルイスはきっと知っている。
なんだか悪いことをした気持ちだった。
「あの……」
「今のロアに必要なのは、こういう本だと思うよ」
ルイスは、ロアに一冊の本を手渡した。
差し出された本を受け取ると、タイトルには〝知性は眠りから生まれる〟と書かれていた。
心の中にすっと入り込んで、絡まっていた糸がほどけるような感覚だった。
二度目の人生で何度も感じた、ルイスの優しさだ。
「ルイス。……私が間違ってた。せっかく教えようとしてくれたのに、突き放してごめん」
「ロアはなにも悪くないよ。僕がロアにうまく伝えられなかっただけ」
ルイスはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「頑張ってるなって思ってたよ、ロア。でも、急ぎすぎないでちゃんと休もう。僕も協力するから」
「……いつもありがとう、ルイス」
「どういたしまして。じゃあ、また後で」
ルイスはそう言って笑うと、居間から出て行った。
ロアはルイスが消えたドアを見つめて思った。
この世界の〝私たち〟は、どんな選択をするんだろう。
ロアは四人掛けのテーブルの前に腰掛けると、本を開いた。
睡眠不足の脳は、危機と焦燥を過大評価し、希望と可能性を過小評価する。休みを怠惰だという者もいるだろう。身を粉にして働けという者もいる。それが美徳だと説く者もいる。
――文字を読み返さなくても、よく理解できる。
休むには勇気がいるのだ。
なぜなら休むとは、未来を諦めないという、意志だからである。
――未来を諦めない意思。長く走り続ける計画。私には、それが足りなかった。もっと早くに気付いていれば。
もっと早くに気付いていれば。そう思うのも無理はない。
しかし、あなたの人生の中で、今のあなたが一番若いという事実を忘れてはいけない。
あなたが人生を終える前に、気づいてもらえてよかった。
では、これからもあなただけの人生を楽しんで。私は本の中から、あなたの幸運を祈っています。
ロアはゆっくりと息を吐き、静かに息を吸い直した。
「今気づけて、よかった」
そう言葉にすると、無駄にした二週間が報われた気がした。
長い人生の二週間だ。
大丈夫。まだどんな方向にも、取り戻すことができる。
ロアは本を胸に抱いて、ゆっくりと呼吸をした。
それから大きく伸びをして、身支度を整えた。
昨日の夜の自分との約束を果たしに、シェルに会いに行くために。
薬草畑の隣を歩いていると、屋敷の玄関前にオズワルドが立っているのが見えた。
オズワルドは誰かを待っているようだ。
彼の表情は厳しい。
嫌な予感がして、ロアは小走りでオズワルドのもとへ向かった。
「オズワルドさん、シェルはいますか?」
「屋敷の中にいます」
「会わせてください」
「それはできません」
「……どうして?」
「シェルさまが、守らなければならない約束を破ったからです」
はっきりと言い切るオズワルドに、胸の内側が騒がしくなる。
「お待ちしておりました」
オズワルドはロアの背後に向かってそう言うと、頭を深く下げた。
「ベルトラード公爵」
ロアが振り返ると、見たことがない二人の男が立っていた。
「ごきげんよう、オズワルド」
三十前後のその男には、思わず身を引いてしまいそうなほどの威厳があった。
分けた髪に、涼し気な目元。身なりのいい様子。なにより、凛とした佇まい。
こんな小さな村に用などあるはずもない、本物の貴族。
嫌な予感が、膨らんでいく。
男はさげすむでも、尊敬するでもない。
平たんな視線で、逃がさないと言いたげにロアの目をまっすぐ見て言った。
「こんにちは、お嬢さん」
「……こんにちは」
ロアがそう返事をすると、ベルトラードはやはり表情を変えずに前を見た。
「僕は後から参ります」
ベルトラードと共に来た、十七、八くらいの若い男は、凛とした様子で立っていた。
朝日にミルクティーを透かしたような髪色の男の容姿は、とても美しい。
だが同時に、触れてはいけない危うさを感じさせた。
ベルトラードは頷くと、それから口を開く。
「王子殿下は」
〝王子殿下〟。
シェルがそう呼ばれるところを、初めて聞いた。
「屋敷の中にいらっしゃいます」
オズワルドはベルトラードに道を譲り、それから屋敷の中に入る。
そして、ロアの目の前で屋敷のドアが閉まった。
屋敷の前に取り残されたのは、ロアと十七、八くらいの若い男の二人。
シェルが魔法を使ってから、まだ半日しか経っていない。
王都・マーテルからトアルの村までの距離は、昨日見た。
あんな距離から半日で来られるはずがない。
なにか、別の理由が――
「王都からここまで、半日で来られるはずがないって、思ってる?」
若い男の言葉に、心臓が音を立てた。
「来られるよ。特別な魔法なら」
男は薄い笑顔を貼り付けていた。
「お願い。聞いてください! シェルが魔法を使ったのは、私のせいなんです」
「殿下が魔法を使ったのは、殿下のせいだよ」
男は相変わらず、綺麗な顔に薄い笑顔を貼り付けていた。
「君がもし、魔法を見せてって殿下に頼んだとしても。君が死にかけてとっさに魔法を使ったとしても。殿下は自分で判断をして魔法を使った。それが〝責任〟ってやつだよ」
「……シェルは、どうなるんですか?」
恐る恐る問いかけると、若い男は屋敷の二階を見た。
「王都・マーテルに連れて帰る」
心臓が嫌な音を立てた。
屋敷の二階を見上げていた男は、ロアの顔を見た。
「かもね」
なんて性格の悪い人なんだ。
ロアは目の前の男を強くにらんだ。
「国王陛下は、〝騎士・リディア〟がいるから、殿下をこの村に預けたらしい。これはリディア殿の責任問題になるかもね」
「……そんな」
「おばあちゃんが心配? ロア・リーヴ」
知らない人間から呼ばれた自分の名前に、ロアは目を見開いた。
「村にはもうひとりルイス・ミレインって男の子がいるよね。今日は一緒に遊んでないの?」
「……どうしてそんなこと、知ってるの?」
「この村のことはなんでも知ってるよ。ここは君の家の敷地だけど、このお屋敷じゃなくて、あっちの小さな家に住んでいることも。ルイス・ミレインの家が教会ってことも。どの家がどの畑を持っているのかも、村を見渡せる高台があることも」
ロアは信じられない気持ちで、若い男を見ていた。
「当たり前だよ。君の友達の〝シェル〟は、ただの少年じゃない。国の将来を担う、国の宝なんだから」
余裕の笑顔を貼り付けている男を見て思った。
世界が、静かに軋みはじめている。
身体がだるい。
完全に狂った体内時計が、泥のような睡眠を求めていた。
だけど、寝ていない時よりも明らかに気分がいい。
ロアは大きく伸びをすると、部屋を出て居間に移動した。
居間には誰もいない。
――さあ、お前はどこへ行く?
そう問いかけられた気がして、図書館を選んだあの日から、見える世界が大きく変わった。
少し冷静になった今思えば、間違った方向に向かおうとしていた。
どこかでドアが開く音がして、足音が近づいてきた。
ロアは入り口のドアを見た。
「おはよう、ロア」
「……ルイス」
ルイスは居間に入るとロアのすぐそばで立ち止まった。
沈黙の間、ロアは胸の奥でなにかがきしんでいる気がした。
ルイスとは、二度目の人生で将来結婚を誓い合った仲だ。
夜にシェルと出かけていたことを、ルイスはきっと知っている。
なんだか悪いことをした気持ちだった。
「あの……」
「今のロアに必要なのは、こういう本だと思うよ」
ルイスは、ロアに一冊の本を手渡した。
差し出された本を受け取ると、タイトルには〝知性は眠りから生まれる〟と書かれていた。
心の中にすっと入り込んで、絡まっていた糸がほどけるような感覚だった。
二度目の人生で何度も感じた、ルイスの優しさだ。
「ルイス。……私が間違ってた。せっかく教えようとしてくれたのに、突き放してごめん」
「ロアはなにも悪くないよ。僕がロアにうまく伝えられなかっただけ」
ルイスはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「頑張ってるなって思ってたよ、ロア。でも、急ぎすぎないでちゃんと休もう。僕も協力するから」
「……いつもありがとう、ルイス」
「どういたしまして。じゃあ、また後で」
ルイスはそう言って笑うと、居間から出て行った。
ロアはルイスが消えたドアを見つめて思った。
この世界の〝私たち〟は、どんな選択をするんだろう。
ロアは四人掛けのテーブルの前に腰掛けると、本を開いた。
睡眠不足の脳は、危機と焦燥を過大評価し、希望と可能性を過小評価する。休みを怠惰だという者もいるだろう。身を粉にして働けという者もいる。それが美徳だと説く者もいる。
――文字を読み返さなくても、よく理解できる。
休むには勇気がいるのだ。
なぜなら休むとは、未来を諦めないという、意志だからである。
――未来を諦めない意思。長く走り続ける計画。私には、それが足りなかった。もっと早くに気付いていれば。
もっと早くに気付いていれば。そう思うのも無理はない。
しかし、あなたの人生の中で、今のあなたが一番若いという事実を忘れてはいけない。
あなたが人生を終える前に、気づいてもらえてよかった。
では、これからもあなただけの人生を楽しんで。私は本の中から、あなたの幸運を祈っています。
ロアはゆっくりと息を吐き、静かに息を吸い直した。
「今気づけて、よかった」
そう言葉にすると、無駄にした二週間が報われた気がした。
長い人生の二週間だ。
大丈夫。まだどんな方向にも、取り戻すことができる。
ロアは本を胸に抱いて、ゆっくりと呼吸をした。
それから大きく伸びをして、身支度を整えた。
昨日の夜の自分との約束を果たしに、シェルに会いに行くために。
薬草畑の隣を歩いていると、屋敷の玄関前にオズワルドが立っているのが見えた。
オズワルドは誰かを待っているようだ。
彼の表情は厳しい。
嫌な予感がして、ロアは小走りでオズワルドのもとへ向かった。
「オズワルドさん、シェルはいますか?」
「屋敷の中にいます」
「会わせてください」
「それはできません」
「……どうして?」
「シェルさまが、守らなければならない約束を破ったからです」
はっきりと言い切るオズワルドに、胸の内側が騒がしくなる。
「お待ちしておりました」
オズワルドはロアの背後に向かってそう言うと、頭を深く下げた。
「ベルトラード公爵」
ロアが振り返ると、見たことがない二人の男が立っていた。
「ごきげんよう、オズワルド」
三十前後のその男には、思わず身を引いてしまいそうなほどの威厳があった。
分けた髪に、涼し気な目元。身なりのいい様子。なにより、凛とした佇まい。
こんな小さな村に用などあるはずもない、本物の貴族。
嫌な予感が、膨らんでいく。
男はさげすむでも、尊敬するでもない。
平たんな視線で、逃がさないと言いたげにロアの目をまっすぐ見て言った。
「こんにちは、お嬢さん」
「……こんにちは」
ロアがそう返事をすると、ベルトラードはやはり表情を変えずに前を見た。
「僕は後から参ります」
ベルトラードと共に来た、十七、八くらいの若い男は、凛とした様子で立っていた。
朝日にミルクティーを透かしたような髪色の男の容姿は、とても美しい。
だが同時に、触れてはいけない危うさを感じさせた。
ベルトラードは頷くと、それから口を開く。
「王子殿下は」
〝王子殿下〟。
シェルがそう呼ばれるところを、初めて聞いた。
「屋敷の中にいらっしゃいます」
オズワルドはベルトラードに道を譲り、それから屋敷の中に入る。
そして、ロアの目の前で屋敷のドアが閉まった。
屋敷の前に取り残されたのは、ロアと十七、八くらいの若い男の二人。
シェルが魔法を使ってから、まだ半日しか経っていない。
王都・マーテルからトアルの村までの距離は、昨日見た。
あんな距離から半日で来られるはずがない。
なにか、別の理由が――
「王都からここまで、半日で来られるはずがないって、思ってる?」
若い男の言葉に、心臓が音を立てた。
「来られるよ。特別な魔法なら」
男は薄い笑顔を貼り付けていた。
「お願い。聞いてください! シェルが魔法を使ったのは、私のせいなんです」
「殿下が魔法を使ったのは、殿下のせいだよ」
男は相変わらず、綺麗な顔に薄い笑顔を貼り付けていた。
「君がもし、魔法を見せてって殿下に頼んだとしても。君が死にかけてとっさに魔法を使ったとしても。殿下は自分で判断をして魔法を使った。それが〝責任〟ってやつだよ」
「……シェルは、どうなるんですか?」
恐る恐る問いかけると、若い男は屋敷の二階を見た。
「王都・マーテルに連れて帰る」
心臓が嫌な音を立てた。
屋敷の二階を見上げていた男は、ロアの顔を見た。
「かもね」
なんて性格の悪い人なんだ。
ロアは目の前の男を強くにらんだ。
「国王陛下は、〝騎士・リディア〟がいるから、殿下をこの村に預けたらしい。これはリディア殿の責任問題になるかもね」
「……そんな」
「おばあちゃんが心配? ロア・リーヴ」
知らない人間から呼ばれた自分の名前に、ロアは目を見開いた。
「村にはもうひとりルイス・ミレインって男の子がいるよね。今日は一緒に遊んでないの?」
「……どうしてそんなこと、知ってるの?」
「この村のことはなんでも知ってるよ。ここは君の家の敷地だけど、このお屋敷じゃなくて、あっちの小さな家に住んでいることも。ルイス・ミレインの家が教会ってことも。どの家がどの畑を持っているのかも、村を見渡せる高台があることも」
ロアは信じられない気持ちで、若い男を見ていた。
「当たり前だよ。君の友達の〝シェル〟は、ただの少年じゃない。国の将来を担う、国の宝なんだから」
余裕の笑顔を貼り付けている男を見て思った。
世界が、静かに軋みはじめている。



