黒い影が散り、裏門の空気が静けさを取り戻しても、
 詩乃の胸の奥ではまだ、微かな灯が揺れ続けていた。

 朔也は詩乃の名を確かめ、短く「無事だな」と言ったあと、なぜか家の方へ視線を向けた。

 ほんの一瞬。
 その瞳に、何かを計算するような鋭い光が宿った。

 「……詩乃。お前の家の“者”を、呼んでこい」

 「え……?」

 突然の言葉に、詩乃は戸惑った。
 呼んでこい──つまり、家族の前へ連れていくつもりなのだ。

 妙が慌てて口を挟む。

 「黒峰様……どうか、ご寛恕を。詩乃様は──」

 「呼べと言った。
 お前の家は、娘の危険にも気づかぬほど愚かではあるまい」

 その声音は冷たいのに、
 なぜか胸の奥が震えるような不思議な威圧を持っていた。

 (……怖い。けれど、逆らえない)

 詩乃は妙に支えられながら、屋敷の玄関へ向かった。

 家の中へ入るなり、華澄の甲高い声が響く。

 「ちょっと詩乃! どこ行ってたのよ!
 お客様が来るって言ったでしょう? この泥だらけのまま……」

 美鶴も眉をひそめる。

 「本当に手のかかる子ね……華澄の晴れ着の準備は──」

 詩乃は震える声で言った。

 「……今すぐ、父様たちを裏庭に来させてください。
 黒峰朔也様が、いらしています」

 ピシッ、と空気が凍った。

 華澄が目を見開く。

 「く、黒峰……!?
 討伐隊の……あの……!」

 美鶴の顔から血の気が引く。

 「どうして、こんな突然……?
 な、なぜ“あの方”が裏庭に……!」

 すると、居間から花守維信が姿を現した。
 顔色を変え、足早に詩乃へ詰め寄る。

 「朔也様が?……何か粗相でもしたのか、詩乃!」

 叱責が飛ぶ前に、詩乃は必死で首を振る。

 「違います。ただ……来てほしいと」

 維信、美鶴、華澄──
 三人は互いに顔を見合わせ、不安を押し殺すように裏手へ向かった。



 庭の奥、黒峰朔也は静かに立っていた。
 黒炎の紋が刻まれた軍装、漆黒の外套。
 ただそこにいるだけで、空気が震えるような存在。

 美鶴は着物の袖を握りしめながら頭を下げた。

 「く、黒峰様……本日はどのようなご用向きで……?」

 維信も深く頭を垂れる。

 「詩乃が、何か失礼でも……」

 朔也は二人の言葉を一蹴するように言った。

 「失礼を働いたのは、そちらだろう」

 朔也は一歩、詩乃の方へ近づく。

 その距離は、詩乃にだけ“温度”が伝わるような近さだった。

 「この屋敷の結界は緩みがひどい。
 禍神の影が入りかけていた。
 ……娘一人、守れないとはどういうことだ」

 美鶴が息を呑み、華澄が震える。

 維信は冷や汗を流しながら必死で弁解する。

 「そ、それは……!」

 朔也は詩乃から視線を外さず、静かに宣言した。

 「もういい。
 ──この娘は、俺が連れていく」

 「……!?」

 一瞬で庭の空気が張りつめた。

 詩乃自身も耳を疑った。

 「つ、連れて……いく……?」

 朔也は迷いもなく続ける。

 「花守詩乃。
 ──この娘は、俺の花嫁となる」

 空気が弾けるように凍った。

 維信の顔から血の気が引き、美鶴は扇子を落とした。

 華澄だけが、怯えと怒りの入り混じった目で詩乃を睨む。

 「な……んで……?
 なんで詩乃なの……?
 黒峰様が、よりにもよって……!」

 朔也の瞳は揺れなかった。

 むしろ、詩乃を守るように立つ姿は、
 冷酷無慈悲と噂された男とは別人にさえ見える。

 維信は膝が震えながらも声を振り絞った。

 「く、黒峰様……!
 しかし、わ、我が家には“華澄”もおります!
 華澄は花弁を咲かせ、煌牙様にも選ばれ──」

 朔也は冷たい視線を維信に向ける。

 「知っている。
 紫堂煌牙──妖狐の神性を宿す男だ。
 あれが花守華澄を“選んだ”ことも」

 華澄がびくりと肩を揺らす。

 「……選んだ、って……」

 朔也は淡々と説明した。

 「強い異能と神性を持つ家系では、
 代々“花嫁選定”の風習がある。
 神性を持つ者は、光や匂い
 ──血脈の響きで、
 自分の“運命の相手”を知る」

 美鶴が息を呑む。

 「そ、それは……まことですの……?」

 「紫堂の男もそうだ。
 妖狐の神性を宿せば、生涯ただ一人の伴侶の
 “匂い”を知る。煌牙が花守華澄を選んだのも
 その感覚によるものだ」

 華澄は胸を押さえ、どこか誇らしげに震えていた。

 だが、その誇りは朔也の次の言葉で粉々に砕かれた。

 「──だが」

 黒峰朔也は、詩乃をまっすぐに見た。

 その瞳に宿るのは、雷鳴の前の静けさのような、確固たる決意。

 「“神性”の中でも最強の力を持つのが、
 ──スサノオの御魂を宿す黒峰の当主だ」

 庭の空気が一瞬で重くなる。

 維信の脚が崩れたように地面へ落ちた。

 「す、スサノオ……!?
 神話級の……!?」

 「そうだ。
 俺たちは、炎と破壊を司る“荒魂”を継ぐ家系。
 ゆえに花嫁選定の光は他家より強固で、誤ることはない」

 そして、朔也は迷いなく言った。

 「俺の炎が指し示す光は、
 ──花守詩乃一人だけだ」

 庭が静寂に飲まれる。

 誰も息すらできないほどの圧。

 「や、やめて……ッ!!」

 華澄が悲鳴を上げた。

 「なんで……なんで詩乃なのよ!!
 私のほうが花弁もあるし、煌牙様にだって……!!
 詩乃なんて……“花のない娘”なのに……!!」

 美鶴が慌てて華澄を抱きとめる。

 「華澄……やめなさい!」

 だが朔也の視線は冷たく、鋭かった。

 「花が咲いていようが関係ない。
 お前のように傲り、他者を踏みにじる心では──
 黒峰の花嫁は務まらない。」

 華澄は息を呑む。

 朔也はさらに続ける。

 「己の価値を他人に押しつける娘は嫌いだ。
 黒峰の炎は強い。
 お前では、耐えられない。」

 華澄の顔から血の気が引き、涙がにじむ。

 対して、朔也は静かに詩乃を見た。

 「詩乃は静かな心を持つ。
 折れず、誰も責めず……その芯が、俺の炎に応える。」

 詩乃の胸の奥が小さく震えた。

 (わたしが……応える……?
 こんなわたしが……誰かに“選ばれる相手”……?)

 信じられない。
 でも、詩乃は心臓が痛いほど熱くなる。

 華澄は崩れ落ち、震えながら涙をこぼした。

 「いや……いやぁ……
 詩乃ばっかり……」

 美鶴も維信も、何も言えなかった。

 黒峰家の当主が選んだと言うなら、
 拒むという選択肢は、家のためにも“存在しない”。

 ただ一人、詩乃だけが震えながら声を漏らす。

 「わ、わたしは……
 そんな……黒峰様の花嫁になれるような者では……」

 朔也が詩乃へ歩み寄った。

 その足取りは静かで、しかし揺るぎない。

 目の前まで来ると、
 朔也は手を伸ばすでもなく、
 ただひとつの言葉を静かに告げた。

 「詩乃。
 ──遅咲きの花は、強い。
 だから俺は、お前を選んだ」

 詩乃の胸の奥で、あの微光がふたたび揺れた。

 恐怖でも誇りでもない。
 今はまだ名前のない、小さな温度。

 朔也の声は低く、しかし優しく響く。

 「来い。
 花守家はお前を守れない。
 だが俺は──必ず守る」

 詩乃は震える唇で、かろうじて頷いた。

 その瞬間、
 花守家の運命は大きく変わった。

 そして詩乃自身もまだ知らない、
 “遅咲きの花灯”が、静かに咲き始めていた。