浅草の夜は、華やかさと裏腹の静寂を纏っていた。
 
 老舗料亭『水月』。その最奥にある離れの間では、重苦しい空気が漂っていた。軍部の大佐と、花守家当主・花守維信。そして数名の護衛たちが、卓を囲んでいる。
 
 「……それで、維信殿。例の娘──詩乃の確保はまだかね」
 
 大佐が、苛立ちを隠さずに杯を干した。
 
 「申し訳ございません。黒峰朔也の妨害が予想以上に手強く……奴は、娘をどこかへ隠し、自身が囮となって帝都を撹乱しております」
 
 花守維信は、脂汗を滲ませながら頭を下げた。整った髭と、高級な着物。かつては威厳に満ちていたその姿も、今は焦りと欲望に歪んでいる。
 
 「だが、詩乃の異能は完成している。あれは、亡き妻・咲良の『桜』と、実験で植え付けた『睡蓮』が見事に融合した、最高傑作だ。あれさえ回収すれば、我が軍の異能部隊は無敵となる。……そして、貴公の悲願である『最強の家系』の地位も安泰だ」
 
 「はい。必ずや……。あの娘は、私の所有物です。母と同じく、国のために尽くさせます」
 
 維信の目には、娘を案じる親の情など微塵もない。あるのは、成功への執着だけだった。その時である。
 
 ドォォォォン!!
 
 腹に響く爆音と共に、離れの障子が吹き飛んだ。紅蓮の炎が、夜の闇を裂いて室内に雪崩れ込む。
 
 「な、なんだ!?」
 
 護衛たちが立ち上がる間もなく、炎の渦の中から一人の男が姿を現した。
 
 黒峰朔也。その瞳は、纏う炎よりも熱く、鋭く燃え盛っていた。
 
 「き、貴様……黒峰朔也!?」
 
 維信が腰を抜かしたように後退る。朔也は、護衛の異能者たちが放った攻撃を、片手で払った炎だけで瞬時に蒸発させた。
 
 「宴の邪魔をしてすまないな。だが、貴様らの薄汚い相談は、ここで終わりだ」
 
 朔也は、ゆっくりと、しかし確かな殺気を纏って維信へと歩み寄る。その一歩ごとに、床の畳が焦げ、炭化していく。
 
 「大佐。貴様には後でたっぷり罪を償わせる。だが今は……そこにいる男、花守維信。貴様に用がある」
 
 朔也の視線が、維信を射抜いた。維信は、圧倒的な「格」の違いに震え上がった。黒峰家の当主としての覇気。それが、今の朔也には満ち溢れていた。
 
 「な、何を……!  私は詩乃の父親だぞ!  娘を返せ!  あれは花守の家のものだ!」
 
 維信が喚き散らす。その言葉を聞いた瞬間、朔也の周囲の炎が、怒りで青白く変色した。
 
 「父親……?  今、貴様はそう言ったか」
 
 朔也は、維信の目の前で足を止めた。見下ろす視線は、ゴミを見るよりも冷ややかだった。
 
 「笑わせるな。貴様ごときが、父親を名乗る資格などない」
 
 「な、何だと……私は彼女を育て、衣食住を与えてやった!  それなのに恩を仇で返しおって!」
 
 「衣食住だと?  虐待を黙認し、使用人以下の扱いをしておいてか?」
 
 朔也は、懐から一束の書類──記者・尾崎に託したものの写し──を維信の顔に叩きつけた。
 
 「これは、貴様が軍部から受け取った『研究協力費』の裏帳簿だ。そしてここには、貴様の妻、霧ヶ原咲良に関する実験記録がある」
 
 維信の顔から、血の気が引いた。
 
 「き、貴様、それをどこで……」
 
 「詩乃が持っていた『鍵』だ。貴様が隠蔽し続けてきた、おぞましい罪の証拠だ」
 
 朔也は、維信の胸ぐらを掴み上げ、強引に立たせた。
 
 「維信。貴様は、咲良様を愛して結婚したのではなかったのか?  世間では、身分を超えた『世紀の異能婚』だと持て囃されていたがな」
 
 「あ、愛していた!  だからこそ、彼女の力が必要だったのだ!  家のために!」

 「嘘をつけ!!」
 
 朔也の怒号が、料亭を揺るがした。
 
 「愛しているなら、なぜ妻を売った!  なぜ、妊娠中の妻を、実験台に差し出した!」
 
 その叫びに、同席していた大佐でさえも息を呑んだ。
 朔也は、維信を壁に叩きつけた。
 
 「貴様は、咲良様を愛してなどいなかった。貴様が欲しかったのは、彼女の『桜』の異能と、それを継承する子供だけだ。だから、咲良様が詩乃を身籠ったと知った時、貴様は喜んだのではない。『実験の準備が整った』とほくそ笑んだのだろう!」
 
 「ち、違う……それは、国の未来のために……」
 
 「黙れ!  保身のために国を利用するな!」
 
 朔也は、維信の顔の横に拳を突き出した。炎が壁を焼き焦がす。
 
 「俺たちのような旧家の当主は、確かに血を残す責任がある。だがな、維信…『花嫁を選ぶ』ということは、その女性の人生、命、そして心……その全てを背負い、守り抜くということだ」
 
 朔也の声には、悲痛な響きがあった。それは、彼自身が詩乃を選び、彼女を守ると誓ったからこそ出る、魂の言葉だった。
 
 「花嫁は、道具ではない。家を飾る装飾品でも、子供を産むための機械でもない。共に歩み、共に痛み、共に生きる……唯一無二の伴侶だ。貴様には、その覚悟が微塵もなかった」
 
 「覚悟だと……?  綺麗事を言うな!力こそが全てだ!  力がなければ、家は守れん!」
 
 維信が反論するが、その声は震えている。
 
 「力が全てか。だから貴様は、まだ産まれてもいない詩乃を、実験動物にしたのか」
 
 朔也は、一語一語、噛み締めるように告げた。
 
 「貴様は、詩乃が母の胎内にいる時から、彼女を『人』として見ていなかった。『成功すれば最強の異能者』『失敗すれば廃棄物』……貴様の目には、娘ではなく、『実験データ』としか映っていなかった!」
 
 「……っ……」
 
 「想像したことがあるか?  暗い実験室で、身体に管を繋がれ、苦痛に耐える妻の姿を。その腹の中で、母親の悲鳴を聞き続け、毒のような薬物を注ぎ込まれた胎児の恐怖を!」
 
 朔也の脳裏に、詩乃が流した涙、彼女の身体に残る見えない傷痕が浮かぶ。
 
 「詩乃の異能がなぜ変異したか、知っているか?  あれはな、母親の『桜』の力が、必死で胎児を守ろうとし、実験の毒を『睡蓮』の力で浄化した結果だ。……咲良様は、貴様に売られ、身体を刻まれながらも、最後の瞬間まで娘を愛し、守り抜こうとしたんだ」
 
 朔也の瞳から、一筋の涙が伝った。それは、亡き咲良と、傷ついた詩乃への鎮魂の涙だった。
 
 「それに引き換え、貴様はどうだ。妻の命を削って手に入れた娘を、失敗作と呼んで虐げ、今また、再実験のために売り飛ばそうとした」
 
 朔也は、手を離した。維信はその場に崩れ落ちた。
 
 「……貴様は、当主としても、夫としても、父親としても、最低の屑だ。貴様の罪の重さは、万死に値する」
 
 維信は、床に這いつくばりながら、狂ったように笑い出した。
 
 「ふ、ふふ……。だからどうした。証拠など、揉み消せばいい。大佐がいる限り、私は……」
 
 「残念だったな」
 
 朔也は冷たく言い放ち、破れた障子の向こうを指差した。
 
 そこには、カメラを構えた尾崎と、数名の新聞記者たちが立っていた。彼らは、今の会話の全てを聞き、記録していたのだ。
 
 「な……!?」
 
 「貴様らの密会は、全て筒抜けだ。今の会話も、貴様が妻を実験体にしたと認めた発言も、明日の朝刊の一面を飾る」
 
 大佐が顔色を変えて逃げ出そうとするが、黒峰家の部下たちが退路を塞いだ。
 
 「維信。貴様が積み上げてきた『名家』の虚飾は、今夜で終わりだ。世間は知るだろう。美談の裏に隠された、おぞましい人身御供の真実を」
 
 朔也は、青ざめて震える維信を見下ろした。
 
 「貴様が愛さなかった娘は、俺が愛する。貴様が守らなかった命は、俺が守る。……詩乃は、もう貴様の道具ではない。俺の、黒峰朔也の誇り高き妻だ」
 
 その宣言は、維信にとって、どんな暴力よりも重い一撃だった。自分が捨てた”失敗作”が、自分よりも遥かに強大な男に愛され、守られている。自分の価値観の全てが否定された瞬間だった。
 
 「あ……あぁ……」
 
 維信は、言葉にならない声を漏らし、失禁して気絶した。かつて栄華を極めた男の、あまりにも無様な最期だった。
 
 朔也は、気絶した維信には目もくれず、尾崎に頷いてみせた。
 
 「後は頼む」
 
 「ええ、任せてください。……素晴らしい『覚悟』でした、黒峰さん」
 
 尾崎は、敬意を込めて朔也を見送った。
 
 料亭を出た朔也は、夜空を見上げた。
 
 戦いは終わった。維信は社会的地位を失い、軍部の実験も白日の下に晒される。これでもう、詩乃を狙う者はいない。
 
 「……帰ろう」
 
 朔也の表情から、修羅の険しさが消え、穏やかな、愛に満ちた色が戻る。
 
 「詩乃の元へ」
 
 彼は、懐の通信機を取り出し、短く告げた。
 
 「詩乃。終わった。……今から、迎えに行く」
 
 ***
 
 朔也が向かったのは、帝都から離れた、詩乃が身を寄せている農家の裏手にある、小さな桜並木だった。
 
 そこは、二人が離散する前、「もし無事に再会できたら、ここで会おう」と約束した場所ではなかったが、季節外れの桜が一本だけ、詩乃の異能に呼応するように狂い咲いている場所だった。
 
 夜明け前の薄明かりの中、その桜の木の下に、一人の女性が立っていた。
 
 質素な着物に身を包んでいるが、その佇まいは、どんな着飾った令嬢よりも美しく、神々しかった。
 
 「……朔也様」
 
 詩乃が、朔也の姿を見つけ、駆け出した。
 
 「詩乃!」
 
 朔也は、駆け寄ってくる愛しい身体を、強く、強く抱きしめた。
 
 「会いたかった……!」
 
 「私も……私もです、朔也様……!」
 
 二人は、言葉もなく、互いの温もりを確かめ合うように抱擁した。詩乃の身体は震えていたが、それは恐怖ではなく、安堵と喜びの震えだった。
 
 朔也は、詩乃の顔を覗き込んだ。やつれてはいるが、その瞳には以前のような怯えはなく、芯の通った強い光が宿っていた。
 
 「……聞いたか。維信のこと」
 
 「はい。風の便りに……。お父様は、捕まったのですね」
 
 詩乃は、静かに言った。
 
 「辛かっただろう。あんな残酷な真実を知って……俺を恨まなかったか?  俺の家も、元を正せば異能を管理する側だ」
 
 朔也が問いかけると、詩乃は首を振った。そして、そっと朔也の頬に手を添えた。
 
 「いいえ。真実は、私を傷つけましたが、同時に私を自由にしてくれました。……私は、父の罪から生まれた子かもしれません。でも、母が命を懸けて守ってくれたこの命には、愛が詰まっていたと、今は信じられます」
 
 詩乃は、涙を溜めた瞳で微笑んだ。
 
 「そして何より……朔也様が、私を見つけてくださいました。道具としてではなく、一人の女として。……朔也様が、私に『愛される意味』を教えてくださいました」
 
 朔也は、胸が熱くなるのを感じた。彼女は、地獄のような真実を乗り越え、自らの足で立ち、自分を愛してくれている。
 
 「詩乃。……俺は、維信に言った。『花嫁を選ぶということは、その全てを背負うことだ』と」
 
 朔也は、詩乃の手を取り、その場に跪いた。それは、主従ではなく、愛する者への最大の敬愛の証。
 
 「改めて、誓わせてくれ。俺は、お前の過去も、血も、傷も、異能も……その全てを愛する。お前が泣く時は俺が涙を拭い、お前が笑う時は俺も笑う。生涯をかけて、お前を守り抜く」
 
 朔也は、ポケットから小さな箱を取り出した。中には、睡蓮と桜をモチーフにした、新しい指輪が入っていた。
 
 「……俺と、生きてくれるか」
 
 詩乃の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは、今まで流したどんな涙よりも美しく、温かい涙だった。
 
 「はい……!  はい、朔也様!  貴方様の隣にいられるなら、私は他に何もいりません……!」
 
 朔也は、震える詩乃の指に指輪を通し、その手の甲に口づけをした。
 
 「愛している、詩乃」
 
 「私も……愛しています、朔也様」

 (闇の中で、私は探し続けていた。
 そして、掴んだ。
 あなたと、今ここにある、この世界を。

 変わらない二人で生きていく。
 だから、もう迷わない。

 朔也さまとなら、嘘のない世界を築ける。
 きっと。)

  朝霧が晴れ、昇り始めた太陽が、桜の木の下の二人を照らし出した。
 
 狂い咲きの桜の花弁が舞い散る中、二人は口づけを交わした。それは、長い冬を越え、ようやく訪れた春の口づけだった。
 
 父の罪も、国の闇も、二人の愛の前には無力だった。
 
 「さあ、帰ろう。俺たちの家に」
 
 朔也が手を差し出すと、詩乃はその手をしっかりと握り返した。
 
 「はい!」
 
 二人の繋いだ手は、もう二度と離れることはないだろう。
 
 その背中を、風に揺れる桜と睡蓮の幻影が、優しく見守っているようだった。