深い、泥のような闇の中を、詩乃は漂っていた。
そこは、母・咲良の記憶の残滓が渦巻く場所だった。冷たい実験台の感触、身体に突き刺さる管。
そして、愛を誓うべき夫──花守維信によって、無理やり実験室へと連行される母の絶望的な叫び。
『あなたの子よ! 維信さんの子がお腹にいるのよ!』
『だからこそだ、咲良。その子が、我が家の悲願である最強の異能者になるのだ』
冷徹な父の声。母の悲鳴。
「……っ、うあああっ!」
詩乃は、自分の悲鳴で弾かれたように意識を取り戻した。
目を開けると、そこは古びた、しかし清潔な木造の天井だった。雨戸の隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。
「気がついたかい、お嬢さん」
枕元に、優しげな老婆が座っていた。彼女の手には、温かい湯気を立てる手拭いがあった。朔也が手配してくれた隠れ家、老夫婦の妻の方だ。
彼女は、詩乃の脂汗にまみれた額を丁寧に拭った。
「三日三晩、うなされていたよ。あんたの身体から、悲しい色の光が溢れ出して……どうなることかと思った」
「私……は……」
詩乃は、身体を起こそうとして、激しい眩暈に襲われた。記憶が、鋭利な刃物のように脳裏に突き刺さる。
手記に記されていた、あまりにも残酷な真実。
父・花守維信は、妻である咲良を、詩乃を身籠もった状態のまま、軍部の実験台として差し出したのだ。
自分の野心のために。より強力な異能を持つ子供を手に入れるために。愛する妻の身体と、胎児だった詩乃の命を、文字通り「材料」として扱った。
胃の腑が縮み上がるような吐き気が込み上げた。詩乃は口元を抑え、布団の上で身を小さく丸めた。
(お父様は……私とお母様を、人間だと思っていなかった……)
生まれる前から、自分は父の欲望のための道具だった。血管を流れるこの血が、汚らわしい泥のように思えた。
父の狂気が、自分の身体の半分を構成しているという事実は、詩乃にとって死ぬことよりも辛い呪いだった。
「……朔也様……」
こんな汚れた生まれの自分が、あの気高い黒峰朔也の隣にいていいはずがない。彼は全てを知って、なお私を守ろうとしてくれた。その優しさが、今は逆に胸を抉った。
老婆は何も聞かず、ただ背中をさすってくれた。その掌の温もりが、凍りついた詩乃の心をわずかに溶かした。
「……旦那様がね、去り際に言っていたよ。『彼女は、誰よりも清らかで、強い花だ。俺の命に変えても守り抜く。だから頼む』って」
詩乃は顔を上げた。
「……清らか、と……?」
「ああ。あの人の目は、あんたの血や過去なんて見ていなかった。あんたという人間そのものを、魂から愛している目だったよ」
詩乃は、懐を探った。肌身離さず持っていた”真実の鍵”の半分と、朔也が別れ際に渡してくれた、彼の家紋が入った守り刀。
(朔也様は、ご存知だった。私が父の罪の産物であることを。それでも、私を妻と呼び、愛してくださった)
もし、ここで私が「自分は汚れている」と嘆いて死んでしまえば、それは父・花守維信の思い通りになることだ。「失敗作」として処理されるだけだ。
だが、生きて朔也の元へ帰れば。私は「花守の道具」ではなく、「黒峰朔也が愛した女性」として生きることができる。
詩乃は、震える手で守り刀を握りしめた。鞘の冷たさが、高ぶる感情を冷やし、芯を通していく。
(お母様。貴方は、お父様に殺された。でも、私は生き残った。貴方が命がけで守ってくれたこの命で、私は父の罪を終わらせます)
詩乃は、深く息を吸い込み、涙を拭った。
「……おばあ様。お水を、いただけますか」
老婆は、詩乃の瞳に宿った、消え入りそうだが確かな光を見て、安心したように微笑んだ。
「ああ、もちろんさ。生きて、待たなきゃね」
詩乃の隠遁生活は、自分自身との戦いの日々となった。
彼女は、日中は老夫婦の畑仕事を手伝い、夜は異能の制御訓練に費やした。精神が不安定になれば、睡蓮と桜の相反する力が暴走し、居場所を敵に知らせてしまう。
「鎮まれ……私の心。私は、父の道具ではない。私は、朔也様の妻だ」
詩乃は、夜の暗闇の中で瞑想し、母から受け継いだ「桜」の生命力と、実験によって生まれた「睡蓮」の鎮魂の力を、一つに調和させるイメージを繰り返した。
呪いだと思っていたこの力も、今は朔也と共に真実を暴くための証拠であり、武器だ。
窓の外を見上げると、欠けた月が白く輝いていた。
「朔也様……私は負けません。どんな真実よりも、貴方への愛が強いことを証明してみせます」
詩乃の心には、真実の重みに耐えうるだけの、静かで強靭な根が張り始めていた。
***
一方、帝都・東京。
夜の闇に紛れ、黒峰朔也は疾走していた。彼の背後には、複数の影──軍部の特務機関と、花守家が雇った異能の刺客たちが迫っていた。
「しつこいハエどもだ」
朔也は舌打ちをし、路地裏へ飛び込むと同時に、掌から紅蓮の炎を放った。
ボウッ!!
炎は壁のように燃え上がり、追っ手の視界を遮る。朔也はその隙に、ビルの非常階段を駆け上がり、屋上へと躍り出た。
彼は、意図的に派手な行動を繰り返していた。自分が「鍵を持って逃亡中」であると敵に信じ込ませ、詩乃から目を逸らさせるために。
(詩乃……無事だろうか)
屋上の縁に立ち、朔也は遠くの方角を見つめた。
彼が詩乃に渡した鍵には、彼女が知るべき、しかし最も残酷な真実が記されている。
花守維信が、身重の妻・咲良を実験体にしたこと。愛する女性を守るべき夫が、彼女を国に売り飛ばし、腹の中の子供ごと化け物に変えようとした事実。
(維信。貴様だけは、人間として死なせてはならない)
朔也の胸中に、ドス黒い怒りが渦巻いた。詩乃がどれほど傷ついているか。想像するだけで、世界を焼き尽くしたくなる衝動に駆られる。
だが、今彼が動けば、詩乃の居場所が露見する。朔也は、懐から通信機を取り出した。
「……どうだ、掴めたか」
『はい、当主様』
通信機の向こうから、黒峰家の影の部隊長の声がした。
『花守維信が、軍部の大佐と密会する日時と場所を特定しました。明後日の夜、浅草の料亭『水月』です。そこで、次の実験計画──詩乃様の捕獲と再実験についての報告が行われるようです』
「再実験だと……?」
朔也の声が、氷点下のように冷え込んだ。
『はい。維信は、詩乃様の異能が完成したと確信し、今度こそ彼女を「繁殖の母体」として軍に提供するつもりです』
バキッ。
朔也の手の中で、コンクリートの破片が粉々に砕け散った。
「……いいだろう。地獄を見せてやる」
翌日。朔也は、変装をして帝都の新聞社街を歩いていた。彼が接触したのは、大手新聞社の社会部記者でありながら、反軍部的な記事を書き続けている男、尾崎だった。
尾崎は、場末の喫茶店の奥席で、朔也が差し出した資料に目を通し、顔面を蒼白にさせた。
「……黒峰さん。これは、正気ですか。花守維信が、自分の妻を……?」
「ああ。事実だ」
朔也は、詩乃が持っている”核心部分”以外の、軍部の実験記録の写しを尾崎に見せた。
「花守維信は、妊娠中の妻・咲良を、軍の人体実験に差し出した。より強力な異能を持つ子供を作るためにな。妻を愛していたのではなく、妻の腹を『実験の培養槽』として利用したんだ」
尾崎の手が震えた。
「なんて……なんてことだ。人の所業じゃない」
「これを記事にすれば、あんたの命も危なくなる。だが、この事実を世に出さなければ、第二、第三の咲良が生まれる」
朔也は、記者の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、その実験で生まれ、地獄を見てきた娘を愛している。彼女のために、この腐った構造を根底から覆す」
尾崎は、ゴクリと唾を飲み込み、頷いた。
「……やりましょう。こんな悪魔を、のさばらせておくわけにはいかない。花守維信の『美談』として語られている異能婚の裏側を、全て暴きます」
「記事を出すタイミングは、俺が指示する。それまでは、絶対に動くな」
記者との会合を終えた朔也は、その足で黒峰家の隠しセーフハウスへと向かった。
部屋に入ると、彼は壁に貼られた花守維信の相関図を見つめた。
花守維信を追い詰めるには、単に殺すだけでは生温い。彼が最も大切にしている「名家の当主」としての地位、「異能研究の第一人者」という名誉。それを全て剥ぎ取り、社会的に抹殺し、彼が妻にしたことの報いを受けさせなければならない。
「維信。貴様が妻を犠牲にして手に入れた栄光、俺が全て灰にしてやる」
朔也は、部下から送られてきた維信の裏帳簿をめくった。そこには、咲良を実験に提供した見返りに受け取った、莫大な「協力金」の記録があった。妻の命の値段だ。
(詩乃。もう少しだ。もう少しで、お前を迎えに行ける)
ふと、朔也の手が止まった。机の隅に、詩乃が以前、押し花にしてくれた睡蓮の花びらが挟んである栞があった。
彼はそれを指先で優しく撫でた。
「……会いたいな」
独り言が漏れた。冷徹な復讐鬼の顔が崩れ、ただ一人の女性を案じる男の顔になる。
彼女が真実を知り、どれほど泣いただろうか。その涙を拭ってやれない自分の無力さが歯がゆい。
「詩乃。もし、お前が自分の血を呪うなら、俺が何度でも言ってやる。お前は汚れてなどいないと。お前は、咲良様が命を懸けて守り抜いた、奇跡の花だと」
決戦は明後日。花守維信と大佐の密会現場に乗り込み、彼らの罪を突きつけ、維信を破滅させる。それが成功すれば、公表の準備は整う。
そうすれば、堂々と詩乃を迎えに行き、あの場所で再会できる。
「待っていろ、詩乃。必ず、迎えに行く」
朔也の全身から、決意の炎が静かに、しかし熱く立ち上った。
***
離散から一週間が経とうとしていた。
詩乃は、農家の縁側で、繕い物をしていた。指先は針仕事に慣れ、心なしか顔色も良くなっていたが、その瞳には以前にはなかった深い翳りと、強い意志が宿っていた。
「詩乃さん、これ、食べるかい?」
おじいさんが、採れたてのトマトを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
詩乃は微笑んで受け取った。
その時、懐の通信機──朔也が渡してくれた、緊急時専用の小さな魔道具──が、微かに振動した。詩乃は、弾かれたように針仕事を放り出し、通信機を握りしめた。
『……詩乃。俺だ』
ノイズ混じりの、しかし聞き間違えるはずのない、愛しい人の声。
「朔也様……っ!」
声を聞いた瞬間、張り詰めていた気が緩み、涙が溢れ出した。
『無事か。変わりはないか』
「はい……はい!私は、無事です。朔也様こそ……」
『俺は平気だ。……詩乃。お前、鍵を読んだな』
朔也の声が、痛ましげに沈んだ。彼は、詩乃が何を知ったかを理解している。
詩乃は、涙を拭い、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「読みました。全て、知りました。お父様が……お母様にしたことを」
『……ああ』
「お父様は、お母様を愛してなどいなかった。私を作るために、お母様を……」
言葉が詰まる。朔也は、遮ることなく、静かに待っていてくれた。
「……私は、父の罪の証です。でも……」
詩乃は、守り刀を強く握りしめた。
「でも、私は負けません。お母様が命を懸けて残してくれたこの命を、父の道具になんてさせません。私は、貴方様の妻として、生きたい」
通信機の向こうで、朔也が息を吐く音がした。それは、安堵と、愛おしさが入り混じった吐息だった。
『……強いな、詩乃。お前は俺が思った通りの女性だ』
朔也の、熱のこもった声が鼓膜を震わせる。
『その通りだ。お前は維信の道具じゃない。俺が愛し、俺が選んだ妻だ。誰にも指一本触れさせない』
「朔也様……」
『準備は整った。明日の夜、花守維信を追い詰める。奴が咲良様にしたこと、お前にしてきたこと、その全ての報いを受けさせる。その後、迎えに行く』
「はい。信じています」
『……会いたい』
最後の一言は、今にも泣き出しそうなほど切実な響きだった。
「私も……私も、会いたいです。朔也様」
通信が切れた後も、詩乃は温かくなった魔道具を胸に抱き続けていた。
もう、迷いはなかった。
彼女は立ち上がり、夕焼けに染まる空を見上げた。その空の向こうで、朔也が戦おうとしている。
「見ていてください、お母様。お父様の罪は、私と朔也様が終わらせます。そして、必ず幸せになります」
泥の中から咲く睡蓮のように、詩乃の心は、残酷な真実という泥を栄養にして、より美しく、気高く開花しようとしていた。
