漆黒の闇の中、詩乃は別邸の庭園を後にした。背後では、愛する朔也が、軍部の追跡を欺くために炎の異能で囮となっている。

  懐には、母・咲良の苦痛と希望が詰まった、「最終の鍵」の半分がある。朔也と離れ離れになった途端、激しい孤独と恐怖が、凍てつく夜風のように詩乃の心を吹き抜けた。

 (朔也様……必ず、必ず、お約束を果たします)

 詩乃が向かったのは、朔也が密かに手配しておいた、黒峰家とは関係のない、穏やかな異能を持つ老夫婦が営む小さな農家だった。

 彼らは異能者間のネットワークで、追跡を逃れた者を匿うことに慣れていた。

   古い木造の農家に匿われた詩乃は、数日間、ほとんど眠らずに過ごした。窓の外の追っ手の気配は絶えず、彼女の睡蓮の異能は、常に周囲の警戒に消費された。

 朔也が命を懸けて守らせたこの鍵を、早く読み解かなければならなかった。

   離散から五日目の夜。降りしきる雨音だけが響く静寂の中、詩乃は意を決して、懐から”真実の鍵”を取り出した。

  朔也から託されたのは、”咲良様の苦痛と、詩乃の異能の変異”に関する、最も核心的な部分だった。

  手記は、母・咲良の筆跡で、細かく、しかし激情を込めて綴られていた。詩乃は、睡蓮の光をそっと灯し、その文字を辿り始めた。

  最初の数ページは、朔也の父、つまり咲良の”愛しい人”への、溢れんばかりの純粋な恋文だった。身分や家柄に囚われず、ただ愛し合った二人の、清らかで切ない思い出。

 『あなたと出会えた私は、この世で一番幸福な女です。いつか、全てのしがらみから解放され、あなたが贈ってくれた睡蓮の装飾の隣で、穏やかに暮らしたい。あなたの愛だけが、私の全てでした。』

  手記は、二人が引き裂かれ、朔也の父が別の女性と政略結婚した後に書かれている。

 『結婚の夜、私は初めて夫である維信の異常なまでの執着を知りました。彼は、私の愛ではなく、私の異能を求めていた。そして、生まれてくる「次代の最強の異能」を我が物にするため、あらゆる非道な計画を立てていた。』

  文章はすぐに暗転する。

 『妊娠四ヶ月目。』

  その一文を読んだ瞬間、詩乃の呼吸が止まった。自分が、既に母のお腹の中にいた時期に、全てが始まったのだ。

 『私が、霧ヶ原家が求める”より強力な異能の源”として、軍部の研究施設へ連行されたのは、あなたの命が宿ってからだった。私の父、霧ヶ原当主は、家系の存続と異能の強化のため、私を道具にすることを容認した。そして、この非道な計画を主導し、私の父に圧力をかけ、私を実験体にすることを強要したのが、私の夫、花守維信だった。』

  詩乃は、手記を持つ手が冷たく凍りつくのを感じた。

 「お父様が……」

  実父である花守維信は、詩乃の母・咲良を愛していたわけではない。彼が望んだのは、生まれてくる娘の”最強の異能”だった。

  彼は、霧ヶ原家と軍部の計画に乗ることで、実験を主導する権力と、異能研究の中枢を担う地位を手に入れようとしたのだ。

 『維信は、私を実験に捧げる見返りに、私の父に『この実験を了承すれば結婚させろ』と迫った。彼は、私を愛するどころか、自分の保身と野心のために、私と、胎内のあなたを、地獄へ突き落としたのだ。彼は、私を道具にし、生まれた娘の異能が国に献上されれば、花守家は永遠に栄えると信じていた。』

  詩乃の胸に、鋭い痛みが走った。これまでの人生で感じてきた、父からの愛情の欠如、継母たちからの不当な虐待。その全てが、この血塗られた取引の結果だった。

 父は、彼女を娘ではなく、”異能を持つ商品”としてしか見ていなかった。

 手記は、実験の非人道的な内容を詳細に記していた。それは、桜の異能(生命力、再生力)を極限まで高め、それを ”次の異能者”に強制的に継承させるための、残酷な記録だった。

 『実験は、連日連夜、意識を奪われることなく行われた。薬物、電気、異能の強制的な注入。胎内のあなたが、私の苦痛を全て吸収していくのが分かった。軍部の目的は、強すぎる異能者の制御と、異能の人工的な生成。私は、もはや人間ではなく、国を挙げての非人道的な研究の「素材」だった』

  詩乃は、喉の奥から嗚咽を漏らし、呼吸が乱れ始めた。母の体験した筆舌に尽くしがたい苦痛が、睡蓮の異能を通じて、彼女の脳裏に焼き付くようだった。

 そして、彼女の異能の根源に関する核心の記述が続く。

 『胎内のあなたは、私の異能と、実験による”混沌”を全て受け止めた。あなたは、私の桜の力(生命力)を受け継ぎながら、実験の過程で注入された異能の混沌を、自らの力で”鎮魂”し、”浄化”した。その結果、あなたの異能は、清らかな睡蓮の光となった。それは、桜と睡蓮という、相反する力が共存する、変異した異能……私の苦痛の全てが、あなたを唯一無二の異能者に変えた。そして、その異能は、この国が隠す全ての闇を浄化し、鎮めるための希望の光となるでしょう。』

  詩乃の身体は、激しく震えた。

  彼女の異能の真実。それは、母の命がけの犠牲と、非人道的な人体実験の結果、生まれたものだった。

 清らかな睡蓮の光の裏には、目を覆いたくなるほどの血と涙が隠されていた。

  母は、その異能を”希望”と呼んだ。しかし、詩乃には、その光が”巨大な罪の証”にしか思えなかった。

  そして、自分自身を生み出し、この地獄を生んだ実の父、花守維信への絶望。彼は、愛する妻を道具にし、娘を虐げ、強い異能を持つ家系の当主としての責任を放棄し、男としての愛を持たなかった。

 「嘘……嘘です……お父様……」

  詩乃の体から、力が完全に抜け落ちた。これまでの虐待や孤独は、真実を知る上での単なる序章に過ぎなかった。

  自分の存在そのものが、巨大な罪と深い悲しみの結晶であるという事実に、詩乃の精神は耐えられなかった。

  彼女の瞳から涙は出ず、代わりに、全身の異能が暴走を始めた。

  清らかな睡蓮の光と、生命の源である桜色の波動が、詩乃の身体から同時に噴出し、激しく衝突する。

  二つの相反する光は、制御を失い、白百合の花弁に血を撒き散らしたような、混濁した紫色の光を放った。

  その相反する力の衝突は、詩乃の精神を激しく揺さぶった。母の苦痛、父の裏切り、そして自分の異能に込められた闇。

 「うああああ!」

  詩乃は、自分自身の存在を否定するかのように、光を鎮めようと叫んだが、異能は制御不能だった。彼女は、自己を否定する闇に深く沈み込んでいった。

 「私は、生まれてきてはいけなかった……母を苦しめた、この力の源……」

  詩乃は、手記を抱きしめ、畳の上に倒れ込んだ。老夫婦が駆け寄ろうとするが、異能の暴走は凄まじく、彼らは恐怖に立ち尽くすしかなかった。

  詩乃の意識は、真実の重圧に押し潰され、ただただ、光と闇の暴走を繰り返す、生きたままの鎮魂歌のようになってしまった。

  彼女の頭の中には、ただ一つの切実な願いだけが残されていた。

 「朔也様……たすけて……」

  愛しい人の名を呼ぶ、か細い声と共に、詩乃の意識は途絶えた。その場に横たわる詩乃の姿は、まるで真実という毒を飲み込んだ、幼い白百合のようだった。