夜桜の別邸の庭園に、異能の激しく衝突する轟音が響き渡った。
「その鍵は、貴様たちを、そしてこの国を滅ぼす」
紫堂煌牙の冷徹な声が響く中、朔也は詩乃を背中に庇い、一瞬で全身を炎の鎧で覆った。
「黙れ、煌牙!真実は、闇の中で腐らせるためのものではない!」
朔也が放った炎の波濤は、煌牙に向けて一直線に押し寄せた。しかし、煌牙が動じない。彼から発せられる深紫の異能が、まるで鏡のような空間の歪みを作り出した。
確かに放たれた炎の波濤は、煌牙の直前で燃え広がることなく煌牙によって作られた紫界(しかい)に沈んでいった。熱が音もななく奪われていく。燃えているはずなのに、世界が冷たい。
「無駄だ。俺の異能は、全ての『力』を歪める。貴様の灼熱だ。私には届かない。」
煌牙の瞳は感情を持たず、ただ任務を遂行する機会のようだった。彼は静かに腕を振る。すると、周囲の石や灯籠や木々の枝が、空間の歪みに巻き込まれて捻じ曲がり、鋭い破片となって朔也めがけて飛来した。
朔也は、炎でそれらの破片を焼き払うが、煌牙は常に詩乃を狙っている。朔也が詩乃を守ために動きを限定されるたび、煌牙は空間の歪みで朔也の炎の出力を制限し、徐々に追い詰めていった。
「黒峰当主。貴様は俺が相手するには強すぎるが、守るべきものが多すぎる。特に、その脆弱な睡蓮の娘と、懐の“混沌の鍵”両方守りながらでは、いくら貴様でも俺には勝てない」
煌牙の言葉は、朔也の最も弱い部分を突いた。詩乃を戦場に置いておけるほど、彼は冷酷にはなれない。
「朔也様……」
詩乃は、煌牙の冷酷な異能に、全身が恐怖で硬直するのを感じた。煌牙は、命を奪うことに一切の躊躇がない、真の軍人だった。
しかし、彼女の懐には、母の命と苦痛が込められた“真実の鍵”がある。そして、その鍵を守るために朔也は自分の命を懸けて戦っている。
(私は、もうただ怯えて守られるだけの花嫁ではない。母の願いを、朔也様と共に背負う、戦う異能者だ)
詩乃は、強く唇を噛み締め、守られてばかりいた自分とは違うことを証明する決意をした。
朔也が煌牙の強力な異能の防御網に炎を打ち込み、弾き返されてよろめいた瞬間、詩乃は動いた。
「止めなさい!あなたの異能は、私には通用しない!」
詩乃は、懐の鍵をしっかりと握りしめたまま、両手を煌牙に向けて広げた。全身に睡蓮の異能を集中させ、鎮魂の光を放った。
睡蓮の光は、煌牙の異能が作り出す紫色の空間の歪みに触れると、驚くべき効果を発揮した。
キィィィィィ……!
空間の歪みは、まるで泥のように、光によって浄化され、一瞬にしてその力を失った。
煌牙の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「馬鹿な……私の『紫界』を中和しただと……?」
煌牙の異能は、破壊と支配の力が核にある。それに対し、詩乃の睡蓮の光は鎮魂と浄化。この2つの異能は、対極に位置していたのだ。
詩乃は叫んだ。
「あなたの異能は、あなたにそっくり。人のことを自分の思うがままに支配をしようとするあなたそのものよ!私の光は、その支配さえも鎮めるためにある!もう誰も悲しませない」
詩乃の光によって、煌牙の防御網が消滅した、たった一瞬の隙。
朔也は、その機会を逃さなかった。詩乃の覚悟に呼応するように、瞳を紅蓮に燃やした。
「今だ、詩乃!そのまま光を続けろ!」
朔也は、詩乃の光が維持している“無防備な空間”目掛けて、全霊を込めた炎を解き放った。それは、先ほど煌牙の紫界によって飲み込まれた炎とは比較にならない。最大出力の紅蓮の波動だった。
ゴオオオオオオオッ!
炎は、煌牙の防御の紫界に妨げられることなく、直撃した。
煌牙は、反射的に異能を凝縮して受け止めるが、炎と光の二重の衝撃は想像を遥かに超えていた。彼の全身を覆う異能の鎧いが砕け散り、煌牙の体は激しく弾き飛ばされ、洋館の壁に叩きつけられた。
壁は崩壊し、煌牙は瓦礫の中に埋もれた。
朔也は、炎の消耗で息を切らし、詩乃は光の出し過ぎで、体を小刻みに震わせていた。二人はお互いに寄り添い、勝利を確信した。
瓦礫の中から、呻き声と共に煌牙が立ち上がった。全身の衣服は破れ、傷を負っている。しかし、その瞳の光はまで消えていなかった。
「恐るべき連携だ……黒峰当主の灼熱の破壊力と、霧ヶ原の娘の異様な“鎮魂”の力……2人揃えば、私の異能も無力化される」
煌牙は、負傷を隠すように異能で体を支え、懐から取り出した通信機を強く握りつぶした。
「だが、これで終わりではない。大佐閣下がすでに真実を露呈された時のための『最終手段』を講じている。その鍵があるかぎり貴様たちは終わりだ」
煌牙は、庭園の暗闇へと姿を消した。彼の言葉は『これ以上の追っ手がいる』という、新たな絶望を突きつけた。
朔也は、詩乃の肩を強く抱いたまま、その場に崩れ落ちた。
「勝った……だが、これで終わりではない。煌牙の言葉は真実だ。軍部が我々を、そしてこの鍵を、血眼になって追ってくる」
詩乃は、疲弊しながらも、懐の鍵を強く抱きしめた。
「朔也様。どうすれば……この鍵を守りきれますか?」
朔也は、紅蓮の炎を失った庭園で、冷たい夜風に吹かれながら、苦渋の決断を固めた。
「この鍵は、父の罪と咲良様の苦しみの結晶だ。同時に、この国の運命を決めるもの。軍部が、これほどの真実を2つまとめて追ってくることはないだろう」
朔也は、懐から“最終の鍵”である手記を取り出し、熟考の末、それを2つに分けることを決断した。手記は、巻物のような特殊な紙で作られており、意図的に分けられるよう作られていたのだ。
1つは、“黒峰家の罪と軍部の関与”に関する記録。もう1つは、“咲良様の苦痛と、詩乃の異能の変異”に関する、最も機密性の高い記録。朔也は、詩乃の異能の根源が記された、より厳重な鍵を詩乃に手渡した。
「詩乃。聞け。俺たちが二人で行動すれば、鍵は1つだと見なされ、同時に奪われる。だが、鍵が2つに分かれれば、奴らは2つの追跡隊を出さねばならない。追跡の焦点が分散する」
「朔也様、まさか……」
「一時的に、離散する」
朔也の言葉に、詩乃の瞳から大粒の涙がこぼれた。ようやく心を通わせ、生命の危機を乗り越えたばかりだというのに、再び引き裂かれなければならない。
「嫌です……!二度と、朔也様と離れたくありません!」
「詩乃……俺もだ。だが、これが、鍵を守り、真実を公表する唯一の方法だ」
朔也は、詩乃の震える唇に、熱い口づけを落とした。それは、彼が心から愛する女性に対する、永遠の誓いの印だった。
詩乃は、初めての口付けに目を見開いて固まり、言葉を失った。だが、同時に切なさが込み上げた。
「俺は、花守維信の動きを追う。奴は、大佐の右腕として、鍵を回収しようとするだろう。俺が囮となって、『軍部の関与』の鍵を持ったまま、奴らを引きつける。お前は、この『咲良様の真実の記録』を持って、身を隠せ。そして、俺からの合図を待て」
「合図……?」
「ああ。俺が、軍部の主要な動きを抑え、この真実を公表する『準備』が整った時、必ずお前に連絡する。その時、2つの鍵を合わせ、真実を世に問う。それまで、何があっても、お前の命と鍵だけは守り通すと誓え」
詩乃は、涙で顔を濡らしながらも、力強く頷いた。
「はい……必ず。この鍵は、母と朔也様が、命を懸けて託してくださった、未来への希望ですから」
2人は、夜明け前の冷たい闇の中、固く抱き合った。煌牙との激戦を経て、二人の魂は、もはや分かちがたい繋がりを持っていた。
「必ず、生きて再会する。そして、今度こそ、お前を俺の妻にする」
朔也の、強く熱い誓いの言葉を胸に、詩乃は小さな鍵を懐に抱き、別邸の裏手から闇の中へと消えていった。
朔也は、詩乃の気配が完全に消えるまで立ち尽くし、炎の力で洋館の残骸を燃やし始めた。彼は、軍部の注意を引くため、“黒峰当主が鍵を持って逃走中”という偽りの情報を残す必要があった。
燃え盛る炎の中、朔也は、愛しい女性との再会と、真実を公表する戦いの始まりを誓った。
