黒峰家の古い別邸に潜伏して一夜が明けた。庭園を覆っていた紫堂煌牙の異能の繭は、詩乃の光によって打ち破られたが、安堵は一瞬で消え去った。
二人の目の前にあるのは、特別な夜桜の根元に浮かび上がった、たった一つの暗号。
『愛しい人よ。光を、あの日、永遠を誓った二つの魂の場所へ、捧げなさい』
朔也は、その言葉を何度も反芻していた。
「この暗号は、物理的な場所ではない。父と咲良様、二人の魂が共有した、極めて個人的な秘密を指している」
朔也は、昨日から肌身離さず持っている、父の古い手記を広げた。手記には、政略結婚を強いられる前の、父の若き日の葛藤が、激情とともに記されていた。
「『あの日、永遠を誓った』……これは、父が咲良様に、『世間を捨てて駆け落ちしよう』と持ちかけた日か、あるいは『結婚はできなくとも、永遠に愛し続ける』と誓った日だ」
詩乃は、桜の木の根元に手を触れ、目を閉じた。彼女の睡蓮の異能が、この因縁の地に深く染みついた、母親の残留思念を読み取ろうとしていた。
「母は……悲しんでいます。けれど、その奥に、強い誇りと切なる願いがあります。母が最も大切にしたもの……それは、朔也様の、お父様との、愛の証です」
詩乃の言葉に、朔也の心臓が強く脈打った。
「愛の証……父が、その**『愛しい人』**に贈ったものか」
朔也は、手記の隅に、まるで誰にも見つからないように、小さな挿絵と共に記された記述を発見した。それは、父が青年期に自ら制作を依頼した、銀の装飾品のスケッチだった。
『彼女に贈る。小さな、睡蓮の装飾。これを肌身離さず持っている限り、俺たちの魂は一つだ。万が一、俺たちが引き裂かれ、真実が闇に葬られたとき、この装飾品こそが、真実への道を照らす「最後の証」となるだろう。あの夜桜の根元に、これを埋めて、彼女に贈る前の『永遠の誓いの印』とした』
朔也は、その記述を読み終え、息を呑んだ。
「これだ……『二つの魂の場所』とは、咲良様に贈る前に、父が『永遠の誓いの印』として、この桜の根元に密かに埋めた装飾品のことだ」
朔也は、その記述が示す場所を特定し、手近な石で地面を掘り始めた。土は固く、深い悲しみを閉じ込めているかのようだった。
数分後、朔也の指先に、冷たい金属の感触が触れた。彼は土の中から、泥にまみれた小さな銀細工の装飾品を取り出した。
水で泥を洗い流すと、現れたのは、細工の美しい睡蓮のモチーフだった。それは、詩乃の異能と同じ、清らかで、しかしどこか寂しげな光を放っていた。
詩乃は、その装飾品を見て、目頭を押さえた。
「これが……母と、朔也様のお父様の……」
「ああ。父は、この装飾品を鍵に、真実を隠した」
朔也は、装飾品をよく観察した。すると、桜の木の太い根元に、不自然に土が盛られた場所があり、そこには、手のひらサイズの、堅牢な木箱が埋め込まれているのが見えた。
木箱は、異能抑制鉱物で覆われており、炎で焼き切ることは不可能だ。
木箱の蓋には、鍵穴のような窪みがあり、その形は、朔也が手にした睡蓮の装飾品と、完全に一致していた。
「この装飾品が、鍵だ。そして、暗号が要求する『光を捧げなさい』は、ただ挿し込むだけではない」
朔也は、詩乃に装飾品を手渡した。
「詩乃。お前の睡蓮の光を、これに込めるんだ。この鍵は、お前の母親が、お前の未来のために作ったものだ」
詩乃は、震える手で装飾品を受け取り、その小さな睡蓮のモチーフを、自分の胸の前に掲げた。彼女の瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。
「お母様……」
詩乃は、全ての感情を鎮め、自身の鎮魂の睡蓮の異能を、装飾品に注ぎ込んだ。
清らかな光が、装飾品から溢れ出し、木箱の鍵穴に挿し込まれた。
カチリ。
硬質な音と共に、木箱の錠が開いた。鍵穴を覆っていた異能抑制鉱物が、詩乃の光によって一瞬で浄化され、砕け散った。
朔也は、慎重に箱の蓋を開けた。中には、厳重に包まれた、古びた分厚い手記が納められていた。
それが、この物語の全ての根源であり、霧ヶ原家抹消の真実を記した「最終の鍵」だった。
「これだ……」
朔也は、その重みに、思わず息を詰まらせた。
詩乃は、その手記をそっと両手で受け取った。手記の表紙は、桜の異能によるものか、淡い桜色の光を放っている。
詩乃が手記に触れた瞬間、彼女の全身に、強烈な母の魂の波動が押し寄せた。それは、言葉になる前の、純粋な感情の奔流だった。
深い絶望と、愛しい娘への切望。言葉にできない苦痛と、そして、それでも未来を諦めないという強い意志。
その波動のさなか、詩乃の胸に、息が出来なくなるほどの悲痛な直感が響き渡った。
それは、この睡蓮の異能が、母の筆舌に尽くしがたい苦痛と、命を懸けた希望の結晶であるという、重すぎる真実の重圧だった。詩乃は、ただ涙を流すことしかできなかった。
詩乃は、その直感に打ちのめされ、膝から崩れ落ちた。
「詩乃!どうした!」
朔也は、すぐに彼女を抱きとめた。
「朔也様……この鍵は……お母様の、あまりに辛い……」
詩乃は、言葉にできぬまま、母の悲しみを共有したことで、深く傷ついていた。
朔也は、詩乃の背中を強く抱きしめながら、その鍵の重みが、単なる秘密の暴露以上の、深い因縁を含んでいることを確信した。
「読むのは、今ではない。だが、この鍵には、父と咲良様が引き裂かれ、霧ヶ原家、軍部、花守維信、黒峰家の三者が関わった、巨大な陰謀の全容が記されている」
朔也は、静かに決意を固めた。
「この鍵は、俺たちの手で、世に公表されなければならない。父の罪と、母の苦しみを、ここで終わらせる」
彼は、手記を大切に懐に収め、詩乃を抱きかかえて立ち上がった。
その瞬間、別邸の庭園に、冷たい風が吹き抜けた。
その風は、異能の気配を打ち消すほどに冷酷で、静寂に満ちていた。
朔也の炎の感覚が、背筋を凍らせる。
別邸の洋館の屋根の上に、一人の男が、いつの間にか立っていた。その男は、全身に深みのある紫の異能の波動を纏い、月明かりを背負っていた。
紫堂煌牙だった。
彼は、一歩も動かず、静かに、そして圧倒的な存在感をもって、朔也と詩乃を見下ろしていた。
「見つけたぞ、黒峰の当主。そして、花守詩乃」
煌牙の声は、感情を完全に排除しており、静かな冬の夜に響き渡った。
「貴様……」
朔也は、炎の力を全身に漲らせ、警戒態勢を取った。
「その手に持っているもの。それが、霧ヶ原咲良の残した、真実の鍵だろう」
煌牙の紫の瞳が、手記を懐に収めた朔也の一点を見つめた。
「その鍵は、この国にとって、破滅の根源だ。咲良は、狂気の中でそれを創り出した。貴様たちは、その鍵を公表すれば、異能者と非異能者の間に、止めどない血の嵐を呼び起こすことになる」
煌牙は、ゆっくりと屋根から地面に降り立った。彼の周囲の空気は、既に戦闘の異能によって歪み始めている。
「私は、大佐閣下の命により、その鍵を回収、あるいは、その場で破壊する。さあ、渡せ。さもなければ、貴様たちもろとも、ここで全てを灰燼に帰す」
煌牙は、静かに、そして決定的な宣告をした。
鍵を手に入れた瞬間、彼らの運命は、紫堂煌牙との避けられない最終決戦へと突入したのだ。
朔也は、詩乃を背中に庇い、炎の力で全身を包み込んだ。
「断る。この鍵は、俺の父の罪、詩乃の母の苦しみ、そしてこの国の歪んだ真実を、正すための希望だ。誰にも渡さない!」
冷酷な紫の異能と、燃え盛る炎の異能。そして、その狭間で、清らかな光を放つ睡蓮の異能。
夜桜の別邸の庭園が決戦の舞台となったのだった。
