隔離施設を脱出した朔也と詩乃は、都心近くの古びた洋館に身を潜めた。夜明け前の薄闇が、彼らを外界から切り離している。
 
 朔也は、異能防御制弾を受けた左肩の傷を手早く手当てしながら、手元にある父の手記と、詩乃が異能の共鳴で得たメッセージを何度も見比べた。

 「桜に季節の夜に、光を向けよ」

 この詩的なメッセージが、鍵の隠し場所を示す最後の暗号であることは間違いない。

 「『桜の季節』は、咲良様の異能の象徴だ。単なる春ではない。咲良様の力が最も安定し、最も強い感情が発露した時期を示すはずだ」

 朔也は静かに言った。

 「その時期……」

 詩乃は首を傾げた。

 「母が私を身籠った時期でしょうか?」

 「それもある。だが、それ以前に、父の手記に記された記述と一致する」

 朔也は、煤けた紙面を指した。そこには、政略結婚が決まる直前の、若き朔也の父の筆跡が残されていた。

 『霧ヶ原の彼女と、今夜も密かに会う。都心から離れた、あの古い庭園。そこでしか咲かない“夜桜”が彼女の異能を静かに受け止めている。彼女の清らかすぎる光が、時代の濁流に呑まれないように、永遠に守りたいと願う。だが、それは許されない夢だ』

 朔也の眼差しは鋭く、その記述の裏に隠された父の苦悩を読み取っていた。

 「父が愛した霧ヶ原の女性は、やはり咲良様だったのだろう。そして、彼らが密かに会っていた場所。そこでしか咲かない『夜桜』それは、咲良様の異能に共鳴し、特定の時期にだけ花開く特殊な桜を指しているに違いない。」

 詩乃は、息を呑んだ。

 「その場所が、鍵の隠し場所だと?」

 「ああ。咲良様は、自分の異能が最も強く、そして『詩乃の睡蓮の異能がなければ開けられない場所に、真実を隠した。そして、その場所は皮肉なことに……」

 朔也は、地図上の特定の場所を指した。

 「黒峰家の管理下にある、古い別邸だ。現在は廃れて、誰も寄りつかない場所となっている」

 詩乃は驚きに目を見開いた。

 「朔夜様の、ご実家の……」

 「父は、真実の鍵を、最も安全で、かつ誰も予想しない場所に隠したかったのだろう。それは、彼が愛した女性への、せめてもの償いだったのかもしれない」

 朔夜の推測は、非常に論理的だった。軍部や花守維信は、鍵が霧ヶ原家や隔離施設にあると考え、黒峰家の古びた別邸など、見向きもしないだろう。

 しかし、その場所は、朔也の父と咲良と、許されない愛を育んだ因縁の地でもあった。二人は悲恋に終わった。両親の運命の軌跡を、今、辿ろうとしている。

 「行こう、詩乃。そこへ向かえば、全てがわかる。俺の父の真実も、お前の母の全てが」

 詩乃は頷き、再び朔也の手に自分の手を重ねた。その接触から伝わる睡蓮の清らかな力は、朔也の心に静かな決意をさせた。
 
 別邸は、都心から電車と車を乗り継いだ、静かな丘陵地帯にひっそりと佇んでいた。明治初期に建てられた洋館は、手入れもされず、外壁は蔦に覆われている。

 「結界はない。しかし、異様な静けさだ」

 庭園は、日本の伝統的な造りと西洋の要素が混ざり合っており、その中央に、周囲とは明らかに異質な一本の大きな桜の木が立っていた。周囲の木々が葉を落としている中、その桜だけが、まるで時が止まったかのように、葉も花も、ない状態で佇んでいた。

 朔也は、その桜の気を目指して足を踏み入れた瞬間、異変を感じた。

 「待て、詩乃。動くな」

 庭園の土から、無数の黒い異能の蔓が、静かに伸び上がってきた。それらは、地面を這い、桜の木を目指す者の足元を絡め取ろうとする。

 「これは……紫堂煌牙の異能だ」

 朔也の顔に緊張が走った。

 煌牙は、この場所が真実の隠し場所であることに気づき、すでにここに最終的な防錆線を敷いていたのだ。

 朔也は、炎の力で足元の黒い蔓を焼き払うが、蔓は焼かれてもすぐに再生し、さらに強力になって襲いかかってくる。
 
 「厄介なことに、この庭園全体が、**煌牙の異能の繭(まゆ)**の中にいるようだ。奴は、ここに自分の力を残していった」
 
 さらに、朔也の炎の力が、まるで水の中に沈められたように、急激に威力を失っていくのを感じた。
 
 「これも煌牙の異能か!……この結界は、俺の**『熱』を奪う**。異能を強制的に中和し、力を無力化させるためのものだ」
 
 朔也は、強力な炎を放とうとするが、炎はまるで湿った木材のように、くすぶるだけで、いつもの威力を発揮できない。
 
 「朔也様!炎が……」

 詩乃も、周囲に満ちる異能抑圧の力場に、身体が重くなるのを感じていた。
 
 「俺の炎が封じられている。このままでは、あの桜の木に近づけない」
 
 朔也は、冷たい汗を流しながら、炎の力に頼れない状況で、どう突破するかを考えた。この結界は、彼の炎という**「熱源」**を奪うことに特化している。
 
 その時、詩乃は、自分の内部で静かに輝く睡蓮の光に意識を集中させた。
 
 「朔也様。私に、この結界を破らせてください」
 
 「詩乃?馬鹿な!この力場で、お前の異能まで消耗してしまうぞ」
 
 「いいえ。この結界が奪おうとしているのは、朔也様の『熱』、つまり破壊的な感情と力です。しかし、私の睡蓮の光は**『鎮魂』と『浄化』**。それは、熱ではなく、魂の安寧です」
 
 詩乃は、朔也の制止を振り切り、黒い蔓が最も密集している場所に向かって、両手を広げた。
 
 「母の悲しみが眠る場所を、邪な力で汚さないで!」
 
 詩乃の清らかな叫びと共に、全身から強烈な睡蓮の光が放たれた。それは、灼熱の炎とは真逆の、冷たくも温かい、清冽な光だった。
 
 光は、庭園全体を覆っていた煌牙の異能の繭に触れると、繭が持つ邪悪な性質を、一瞬にして中和し始めた。
 
 キィィィィン…
 
 異能の繭が、悲鳴のような音を立てて崩壊していく。蔓は力を失って地面に溶け、朔也の身体を重くしていた抑圧の力場も、霧散した。
 
 「詩乃……やったのか!」
 
   朔也は、炎の力が完全に回復したのを感じた。

 詩乃は、異能を使い果たしたのか、その場に崩れ落ちそうになったが、朔也がすぐに抱きかかえ、彼女の身体を支えた。
 
 「朔也様……これで、行けます……」
 
 「ああ、ありがとう、詩乃。お前こそが、俺の、そして真実の鍵だ」
 
 朔也は、詩乃を腕に抱いたまま、二人の両親が秘密を分かち合った、特別な桜の木へと歩み寄った。
 
 桜の木の下の地面は、他の場所とは異なり、丁寧に踏み固められていた。しかし、鍵が隠された場所を示す穴や印はどこにもない。
 
 「どこだ……このメッセージの先に、何が待っている?」
 
 朔也は、焦燥に駆られ、炎の力で地面を焼こうとした。
 
 その時、詩乃の腕の中で、彼女の睡蓮の光が、再び微かに輝き始めた。その光は、桜の木の根元、特定の場所の地面に、集中して注がれた。
 光が注がれた地面に、肉眼では見えなかった古い文字が、まるで浮かび上がるように現れた。それは、朔也の父の筆跡ではなく、咲良の繊細で美しい筆跡だった。
 
 『愛しい人よ。光を、あの日、永遠を誓った2つの魂の場所へ、捧げなさい』
 
 その言葉は、朔也の父と咲良が、かつてここで交わした、誰にも知られていない秘密の約束を示唆していた。
 
 「あの日、永遠を誓った2つの魂の場所……」
 
   朔也は、それが、鍵そのものではなく、鍵を開けるための最後の条件であることを悟った。
 
 真実が記された「鍵」は、まさにその場所にある。そして、それを見つけるには、朔也の炎の力と、詩乃の睡蓮の光、2つの魂が1つになることが必要だった。

 二人は、父と母の残した因縁の地で、ついに真実の扉を開く、最後の暗号に直面したのだった。